たわいなくてかけがえのない日々

 空には巨大な瞳が浮かんでいて、私たちを見つめている。

 見守っているのではない。いつ、私たちを滅ぼそうかと睨んでいるのだ。

 世界中にあの瞳が現れた時は誰も彼もパニックに陥った。瞳が落とす涙は容易に世界各国の都市を沈めてしまう。戦闘機が瞳を破壊しようとしたけれど、どんな攻撃も通用しなかった。

 それは神の涙だと誰かが言った。そうなのかもしれない。

 地上で私たちが飽きもせずに自分たちを増やして無為な時間を過ごしているから、かつての世界を洪水が襲ったように、神様が全て洗い流して世界をやり直そうとしているのかもしれない。

 でも、人々は見つける。どうすれば神にその祈りが届くのか。祈りを届けられる人が誰なのか。

「それじゃあまた明日」

「お疲れ〜じゃあまたね〜」

 学校でクラスメイトと挨拶をして帰ることにする。下駄箱で靴を履いて坂道を下る。

 頭上に巨大な瞳が浮かんでいるというのにもう誰も気にしていない。いまや瞳は半透明で太陽の日差しだとか、雨粒は通さないものだから涙を落とさない瞳は私たちにとって益も害もないものになっている。そうして生物にとって都合の良いものまで覆い隠さないのも、人間以外の存在のためなのだろうか?

 私は坂道を下って学校の門を出て少し早めに歩いていく。祈りの捧げられるあの場所へと。

 終わる時間はきっちり十八時。それより早く終わることも、遅く終わることもない。

 マンションの一室の前で私は待っていて、その時間に扉が開く。

「お疲れ様。溝口君」

「うん。いつもありがとう」

 溝口君はこのマンションの部屋でいつも祈りを捧げている。この世界を終わらせないように。

 誰が溝口君の祈りによって世界が涙に沈んでしまうことを防げることに気づいたのかを私は知らない。でも、確かなことは溝口君の祈りで天の瞳が活動を止めてくれることだけだ。

 世界中の人に見守れられて溝口君はずっと祈りを捧げる。このマンションは瞳に願いを届けることの出来る一番のポイントで、ここで祈りを捧げることで世界中の瞳が活動してしまうことを防ぐことが出来る。

 時間はきっちり九時から十八時。溝口君はこの部屋から離れず、ずっとここで過ごす。雨の日も晴れの日も曇りの日も、どんな時も。溝口君が風邪を引いていても、私たちが修学旅行に行っていても、文化祭を過ごしていても、体育祭で勝利を喜んでいる時も、溝口君はここにいる。

 国から十分すぎるくらいの報酬は出されていて、溝口君の人生は補償されていると誰もが言うし、思っている。

 この世界の安定が溝口君の祈りによって保たれていることも、初めのうちは感謝をしていた人たちも忘れていく。

「どんなことがあったのか、教えて欲しいな」

「うん」

 溝口君は私の口から学校生活を聞く。どんな授業があって、どんなことを学んで、どんな人がいて、どんなことが起きていたのか。まるで自分の欠けた時間を埋めるように。

『祈ってるだけで人生オッケーなんて楽勝じゃん』『代わりて〜』とかそんな言葉がクラスメイトのSNSアカウントでは書かれているけど、私はそれを伝えない。

 私は知っている。溝口君が体を壊した時も、体に苦痛を感じながら祈りを捧げていたことを。溝口君が誰もが楽しんでいる時間に一人で部屋で祈りを捧げていたことを。

 それが全部私たちのためであることを。

「それでそれで」

 溝口君は本当に楽しそうに私の話を聞いてくれて、私は泣きたくなるけどその涙を見せるわけにはいかない。

 私は考える。溝口君が祈りを捧げる人として選ばれたのは、もしかすると溝口君が誰よりも誰かの悲しみの涙を見たくないからで、だから空の瞳の涙すら溝口君は流させたくないからなんじゃないかと。私は聞けない。聞いたところで、何もできないから。

 それでも、そんな優しい溝口君の時間は今も奪われている。昨日も、今日も、きっと明日も明後日も。祈りを捧げる時間によって消えていく。

 誰にもたわいもないかけがえのない時間を奪うことなんて許されないのに。他の人が遊び、話、互いを知るかけがえのない時間が消えていく。

 それなのに、私もまた溝口君からそんな時間を奪っている誰かのうちの一人で、そんな世界に甘んじている。

「どうしたの?」

 まだ外は夕暮れ時で明るくて、溝口君の顔がオレンジ色に照らされる。

「ううん、なんでもない」

 私は笑顔を作って、溝口君にその日の楽しいことを話し続ける。

 こんな時間が少しでも溝口君にとってかけがえのない時間の欠片になりますように。〈了〉

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