バイバイ感情

 世界で一番優しい溝口君が世界で一番何も持っていない。

 感情がお金に換えられるようになって人類はどれだけ理性的になったんだろう? 怒りのような強い衝動を伴うものから、悲しみのような静的なものまで、私たちはエネルギーに変換できるようにしてしまった。大きなところでは火力水力原子力に並ぶ新しいエネルギー、小さなところでは私たちが日常的に些細なストレスをやり過ごすためのエネルギー。

 感情のエネルギー変換によって売買可能になった喜怒哀楽で私たちの生活はとても楽になった。感情労働とはうまいこと言ったもので、アルバイト中に今までは無理やり作っていた笑顔を『楽しい』感情を買うだけで容易に保つこと出来る。

 朝の時間、遅延証明書を改札で受け取りながら学校に遅れてしまいそうだ、と思う。

「今日、電車が遅れた挙句普段より満員電車になっててめちゃくちゃうストレスだったんですよね」

「うーん、その程度の感情だと五十円だよ」

「そうですかぁ」

 裏道の『感情屋』で測定してもらうけれど、この程度だと遅刻の割りに合わない程度しかもらえない。

 でも売る。そうすると私の中での満員電車での苦しさとかの感情が消えてお金に替わる。

 学校へ行く途中でも私は自分の感情を探している。何かつまづいたり、転んだり、ひったくりにあったりしないかな。それとも何か凄い良いことが起きてくれないかな。

 そんなことばかり考えている。全部、私はお金に換えるのに。

 学校では皆が楽しそうに話している。十代の頃は幾らでも感情が溢れてくるものだから、誰も彼もお金に出来るというのに驚くほどに皆はお金に換えたりしない。

 コンビニとかでは十代に感情の換金を認められないから、校則で禁止されているから、というのはあるけれど、きっと皆が換金しない理由はそれだけじゃない。

 いくらでも自分たちの感情が溢れてくると信じているから。

 これからもいくらでも楽しいことも悲しいことも溢れてくると無条件に思っているから。

 もう、そんな学校の人たちのそんな無邪気さに激情のような感情も湧いてこない。初めは嫉妬のような感情や怒りのような感情も湧いていたはずなのに。

 ただ、今は羨ましいという気持ちだけが微かに残っている。

 でもきっとこの感情も帰りに裏道で売ってしまう。

 学校での時間をただ過ごす。少しでも感情が湧いてくれるといいと思ったけど、そこにいるだけで何かが自分の中に起きるほど人生は甘くない。だけど、私はもう何かを自分からするほどの気持ちは何処にもない。

 一日を過ごす中で私はただ、溝口君のことを思う。

 溝口君。溝口君。溝口君。

 私はそのことを思うだけで、まだ自分に感情が残っていることを感じられる。

 学校が終わって、私は一人で帰り道を歩く。

 感情の売買が行われるようになって最初に問題になったのは感情の搾取だった。まだ感情を抽出するための機械の規制も行われていなくて、人身売買と違って感情を奪っても本人は消えてなくなったりしないから巧妙に抜き取られる感情を選択されて、結果として事件の発生が遅れてしまう。

 溝口君が拐われたのは中学生の時で、帰ってきた時にはもう感情がほとんどなくなっていた。

 それでも溝口君は微笑んでいた。残された感情は『優しさ』だけで、溝口君は他の感情を失ってただ誰かのために死なないだけになってしまう。

「溝口君、入るね」

 溝口君の家は空いていて、溝口君しかほとんどいない。

「やぁ」

 ほとんど抑揚のない声で、座った溝口君が私を迎え入れてくれる。

 そこから話すことはたわいもないこと。私が学校で聞いたこと、見たこと、感じたこと。私はもう本当は何も感じていないけど、想像力を使って何とかストーリーに仕立て上げる。

「そう。楽しかったのならよかった」

 人間関係は分かち合いと皆が言うけれど、分かち合うという行為は本質的に奪い合いで、そんなことが基本であるのなら奪われ続ける人だっているはずなのだ。

 昔から溝口君は優しかったけど、きっともっと他の感情があったはずなのだ。人に、私にも見せなかった怒りや、悲しみや、喜びがもっとあったはずなのだ。人に見られるところだけが人を作るのではなくて、秘められた場所に積み重なるものだってその人を形成する大切なものなはずだ。

 だけど、今の溝口君にはそれがなくて、きっとこのまま緩やかに死んでいく。

「溝口君、待っててね。きっと必ず私がまとめて買い戻すから」

 人一人の一生分の感情は、とても高い。

 いくら私が日々の感情を売っても、それだけの金額簡単に集まらないかもしれない。

 でも、もうこれしか私にはない。溝口君の感情を買い戻すために、私は全てを売っている。

 もう私はそれを嘆く気持ちも笑う気持ちもないけれど、こうして溝口君と過ごす時間といつか溝口君に感情が戻る日を思うことだけが私にわずかな喜びを与え続けてくれる。

 この感情は譲らない、失わない。

 いつか、私が燃え尽きてしまっても。〈了〉

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