罪と罰
「―――――っ」
【
寒い。
惑星の南半球に位置するこの地域は現在、秋が終わりかけ、特に深夜の気温低下は深刻だ。そんな中を薄絹一枚で進み続けている麗華の所業は本来、正気の沙汰ではない。
ましてや彼女は本調子ではない。右足はまだ完治しておらず、水も食料も不足し、現在地も分からずに疲弊し続けているのだ。それでも休息は許されない。樹海は捜索を困難とするが、徒歩での移動距離は知れている。いつ追手がかかるか分からなかった。
飛べたらよかったのに。
麗華は思う。ほんの数日前まではもっていた、奇跡のような力。音速の三倍で空を駆け、海中を進み、熱核兵器にも耐えうるもう一つの体はまるで、記憶と引き換えにするかのように失われてしまった。首に取り付けられた機械から発せられる、停止信号によって。もちろん装甲車を解体できる神格の腕力で破壊できない以上、今の麗華にはどうにもできない。せめて分子運動制御でも使えれば、移動速度は大幅に上がったろうが。寒さもマシなものにできただろう。
これは、罰なのだろうか。
麗華は思う。今まで多くの罪を犯してきた。何万、何十万、何百万と言う人を殺した。地球を滅茶苦茶にしたし、こちらの世界でも神々の代行者として恐怖を振りまいた。だから、すべてを奪われたのだと。最初は記憶を。次には信頼していた人と、生還するための機会を。
恐らく、麗華が生き残れる可能性は限りなく低いだろう。
飢え。脱水症状。寒さ。
まるで、この惑星そのものが彼女を殺そうとしているかのようだった。追われていなければ。そして自然が地球同様に豊かであれば、何とかなったかもしれない。虫を掘り出し、鳥を捕らえ、木の皮をはいででも飢えを満たせただろう。
だがこの死にかけた星には何もない。今の麗華のように。超新星爆発とそれに伴う神々の過ちによって、そういった生命は既に絶滅した。地球由来の生物群もまだ、この地域には存在していないように見える。たった半世紀でそれらが惑星を覆い尽くすのは難しいということだろう。このような寒冷な地域は特に。
それでも、麗華は歩き続けた。ここは前線よりかなり後方に位置するはずだ。それも神々の勢力圏の内側。輸送機が撃墜されているあたり、どこまで支配が続くかは疑問符がついたが。
だから、あるはずだった。人類の集落が。どこかで河川に行き当たれば、それに沿って海まで行けばいい。海沿いならばいつかは人類集落に行きつくだろう。よしんばそうならなかったとしても。海洋の生態系の回復はほぼ終わっている。海の幸を得ることができれば、生き延びる目はまだあるはずだ。
麗華はまだ、諦めてはいなかった。
奇跡は起きるのだ。門が開き、国連軍がこの世界に雪崩れ込んで来た時のように。
あの時。第一次門攻防戦に、ブリュンヒルデはデメテルと共に参加していた。門を開こうとする一人の男と。彼が率いる五柱の人類側神格と戦ったのだ。彼らは神々に存在が露見してから一年近くも生き延びた。何十年もかけて門を修復し、そして自分たち四十五柱の眷属と戦ってその数を半数以下にまで減らした。門が開き、そして国連軍の強力無比な部隊が雪崩れ込んで来た。いずれも、奇跡としか言いようのない偉業だった。
そのすべてを、敵としての麗華は目の当たりにした。
だから。
麗華は歩き続けた。そうすれば奇跡は起きるのだと信じて。
◇
樹海を幾日も歩き通した先。そこに広がるのは急流だった。
腰を落ち着け、麗華は水をすくった。驚くべき透明度。
「……」
最初ためらいがちに。やがて、口を直接川へ突っ込み、喉を潤す。
十分に満足できるだけの水分を得て、ふと気づく。
魚だ。
魚が遡上している。一匹や二匹ではない。大群だった。
鮭?それとも別の魚?
地球侵攻以前に建造された旧型の神格である麗華に、その知識はインストールされていなかった。
思い出す。地球の遺伝子資源を用いての生態系の回復は、まず海洋から開始されたのだと。
ならば、次に再生されるべきなのは?
生命にとって水は必須だ。ならば、河川もそのいくつかは再生されたのだろう。その一つが、少女の眼前に現れたのだ。
杖を投げ捨て、サバイバルキットを放り出し、少女は川へと飛び込んだ。技など必要ない。幾らでもつかみどり出来た。
数十分後。
川から上がった麗華は、川岸で跳ねている魚の一匹を掴むと、そいつの頭を岩に叩きつけた。
動かなくなった魚。生のままのそれにかぶりつき、血を啜り、そして肉を喰らう。
今までの分を取り戻そうとするかのように。
無数の魚を喰らい尽した後、少女は眠った。
樹木の根元。風の当たらないそこで。
目覚めた時、夕日の中で、金髪の女神がこちらを見ていた。
―――西暦二〇六四年四月。第一次門攻防戦から十二年目の出来事。地球人類が勝利する三年前。
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