覚醒

「―――何?なんなの?一体何が起こっているの!?」


樹海の惑星グ=ラス南半球海上】


少女が時、そこは戦場だった。

「―――え」

口から出た言葉は、暴風に呑み込まれた。

目にまず入ったものは分厚い雲に覆い尽くされた空。肌を激しく打つのは豪雨。常ならば瞼を上げてはおられないほどのそれに、しかし閉じるべき瞼がない事に気付いて困惑する。

周辺は暗い。風速は百メートル毎秒を越えるだろう。うねる海面はまるで津波。

嵐である。それも、人間が生存することなど叶わぬ地獄。

事実、この場には人間と呼べる者など、存在してはいなかった。少なくとも、少女自身の概念に照らし合わせれば。

「どこなの―――?」

分からない。少女には、自分が今どうなっているかがさっぱり分からなかった。

周囲を見回した彼女は、あり得ない光景を目にした。

遥か下方に波打っているのは海面。

そう。己はその上空に位置している。何の支えもなく浮遊していたのだ。

困惑した彼女が視線を前へ向けると。

異様な存在だった。昆虫にも見えるが、より洗練された高度な機械のようにも見える。白銀のそれは、少女自身と同等のサイズか。

細部を観察する暇はなかった。そいつは、少女へ向け、手にした槍を突き出したからである。

衝撃。

音速の八倍で迫る槍は、少女を串刺しにする寸前、その軌道を捻じ曲げられた。優れた技量に操られた赤い剣によって、阻まれたからだった。

それを成し遂げた剣の主。すなわち少女自身は困惑していた。この怪物はなんだ。この剣はなんだ。いや。それよりも重要な事。

剣を握るこの腕はなんだ。私の。私の腕は一体どうなっているの!?

槍に遅れてやってきた衝撃波は、爆風にも等しい勢いで雨を吹き散らし、一時、静寂が訪れた。

雨滴が吹き飛んだ腕は、赤。ぬらりとした赤い金属一色のそれは、まるで彫刻のよう。

だがそれは間違いなく少女の腕だった。幾つもの醜い傷跡。その断面は、まるで捩じ切られた金属であるかのような、やはり赤だったにも関わらず。

感じる。自由に動かせる。まるで神経が通っているかのように。で、あるならばやはりこれは、少女自身の腕であるのだろう。

―――これが、私?

眼前の怪物。すなわち白銀の昆虫は後退。その刹那。

ひとつしかない、そいつの複眼―――頭部の半分を占めている―――に写った少女自身の姿が目に入る。

ひどく歪んではいたが、はっきりと見えたそれは随分と傷ついていた。

頭部半壊。左腕欠損。腹部に大穴が空いている。瞼がないのも道理だ。頭が半分消滅していたのだから。

それですら、大した問題ではなかった。ひとの形をしたそれは、人ではありえない姿だったから。

それは神像―――大いなる女神像であった。

戦衣を纏い背には弓。甲冑で身を守り、幾対もの翼を広げ、砕けた兜で残る顔を隠した巨像だった。

「なに。どうなって―――?」

言い終える間ほどの時も、敵手は待たなかった。

突撃してきた昆虫の槍を剣で逸らすので精一杯。

少女を打ち据えたのは、音速の三倍で突進してきた一万トンの質量そのもの。熱核兵器に匹敵する破壊力を備えた怪物の体当たりにしかし、少女の強靭無比な身体は耐えきった。

剣を投げ捨てると、少女は反射的に精神を集中する。敵を逃がさぬように前脚を槍ごと抱きしめ、そしてアスペクトを解放。少女の身体を形作る流体。その構成原子が励起した。

膨大なエネルギーの手を、少女は伸ばした。それは怪物の中心へと至り、拡大し、引き金を引いてから消滅する。

それは、ささやかな作用だった。ほんの少し、物質の安定を保つ電気的なエネルギーを引き下げただけ。

それで十分だった。

物質構造が砕け散る。ごく限られた範囲で同時多発的に発生したそれはたちまちのうちに連鎖反応を起こし、急速に拡大していく。

凄まじい勢いで、敵の身体構造を構築する流体が崩壊。余剰エネルギーが拡大し、たちどころに巨大な竜巻―――渦と化した。

崩れていく敵を突き放した少女は、呆然とその光景を見やることしかできぬ。

白銀の昆虫は、必死に身をよじり、渦の効果範囲外へ逃れようとする。その間にも凄まじい速度で崩壊していく全身。その努力が功を奏した時、体の半分ほどが失われていた。

少女は思わず、止めを刺そうとして。

「―――左だ!」

耳に飛び込んできたのは警告。女の声だったと認識する間もなく、少女の残る頭部は消し飛んでいた。六百トンの長槍が、突き立ったからである。

「―――っ!?」

口すらもなくなっても、悲鳴は飛び出た。仰け反った少女はまだ生きていたが故に。

天空に浮かぶのは、幾つもの影。たった今倒したのとは異なる敵のうちの一体が、槍を投じたのだ。

そいつは人間に似ていた。少なくとも、先の白銀の昆虫よりは。

軽装の甲冑を纏い、手には盾。古代の重装歩兵を思わせる兵装である。

だがその背から伸ばすのは被膜を張った巨大な翼であり、大きな耳を持つ頭部は蝙蝠にも似ている。

暗灰色の、これもまた彫像。神像、いや悪魔像であった。

獣相を持つ異形の像は、虚空から長槍を取り出した。まるで魔法のように出現したそれは、悪魔像自身の四倍もの長さがある。

二百メートルのそれに膨大な熱量が注ぎ込まれ、運動エネルギーへと直接変換されていく。

物理法則に叛逆した挙動で飛び出した槍の速度は、音の二十四倍にも達した。

生じたのは、そうとすら思える破壊力。

とはいえ少女自身は無事だった。正確な照準の第二射が少女を串刺しにしなかったのは、彼女を庇う者によって軌道が捻じ曲げられたから。巨大な質量がこすれ合って火花を散らすそばから、衝撃波が吹き散らしていく。

「下がれ!」

げき―――長柄の尖端と垂直に刃を備えた武器―――を両手で構え、少女を振り返るそれも、巨像だった。

巨大な翼を持ち、戦衣を纏い、顔を仮面で覆い隠した優美なる女神像である。

その色はライムグリーン。透き通るようなその素材は、宝石のようにも見えた。

「―――あ――わた―し―――」

「動けるか?もう持たない、引くぞ!」

まともに返答を返せない少女を前後不覚とみたか。

女神像は、少女の赤い手を掴むと、そのまま下方へ身を投じた。

荒れ狂う海面へと。


  ◇


「―――逃げてくれたか」

呂布ルゥブゥは構えを解いた。海中に飛び込んだ二柱が戻ってくることはあるまい。信じがたいほどに強力な眷属どもだった。まさかあれほど頑強だとは。巨神を構成する流体は制御者の集中力によってその分子間結合の強弱が決定される。最後に残った二柱の眷属。特に赤い方は驚くほどのしぶとさだった。知性強化動物のそれに匹敵する強度を発揮したのではあるまいか。

敵が消えたのと反対方向の海面に視線を向ける。大荒れで何十メートルという荒波が巻き起こるそこが割れ、巨大な物体が浮かび上がってくる。

途轍もない大きさの蛇だった。何百メートルもあるのではなかろうか。虹色の蛇。同僚の"虹蛇ユルング"級、個体名を"アデレード"。

彼女はひとりではなかった。その拡張身体のに、傷ついた機械昆虫をくわえていたからである。

はやしもだった。

「無事か?はやしも」

「……むちゃくちゃ痛い、です……」

「生きてる証だ。後で何でも好きなもん食わせてやるから我慢しろ」

「我慢する、です……」

半壊した"蠅の王ベルゼブブ"の姿は痛々しい。しかしそれが致命傷とは程遠いものであることを、呂布ルゥブゥは知っていた。はやしもら蠅の王は不死である。どんな重傷を負っても復活するのだ。初めてその再生を見た時は呂布も心底たまげた。一抱えほどの蟲の群れしか残っていなくとも、一週間もあれば元通り人の形をして日常生活に戻れるのだ。さすがに大きさが回復するまではもう少しばかりかかるが。彼女らが人の形をしているのは、単に人類社会だとその方が便利だから以上の理由はない。

「さて。どうする?ひとまず後退するか?それともひとり割いてはやしもを後送、ふたりで奴らを追うか?」

「一旦全員で後退。規則通りにね。無理する必要はないよ。後は別の部隊が引き継ぐ」

「了解だリーダー」

振り返れば、暴風雨の中佇んでいたのは蝙蝠の頭部を備えた獣神像。ミカエルだった。この四人が一戦闘単位なのだ。神格部隊は必要な場合を除いて、基本的には多種混合編成である。それは遺伝子戦争期の戦訓によるものでもあるし、同機種は兄弟姉妹であるから分散させられる。という面もある。共に育った家族が目の前で戦死するのは、人間だろうが知性強化動物だろうが関係なく心に深い傷を残す。それを避けるための措置だった。

戦いを制した人類製神格たちは、高度を上げると反転。そのまま帰路に就く。彼らの頭の中は、戻った先で待っている温かい食事やシャワー、ベッドのことで一杯だった。たった今戦った相手が既に眷属ではなく人間だったなどという事実に気付いた者は、もちろんいなかった。



―――西暦二〇六四年三月末。ひとりの少女が五十四年ぶりに自意識を取り戻した夜の出来事。

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