雪の日の出立
「向こうがどんなところか?うーん。滅茶苦茶広い」
【東京都千代田区 都築家】
雪が、降っていた。
窓の外でちらつくのを横目に、はやしもは制服の袖に腕を通す。衣類は大事だ。人間は服を着るものだから。着衣は言語だ。社会的地位。公私の別。財力。信条。様々なものがひと目でわかる。ましてやこれから赴く地に住まう人類の大半は知性強化動物を見たことがない。そういった意味でも重要な役割を、衣類は果たすだろう。
無数の小型生物の集合体である五体が動く。はやしもの体内では無数の昆虫が分業している。同一の種だがその姿や機能は驚くほどに多様だ。さもなくば体内に血液を循環させ、口から入った食事を消化して排泄し、呼吸して酸素を取り込むことはできない。部位ごとに分化した昆虫やその他の微小生物群が連携してはやしもの体内を形作っているもし大きく欠損すれば、他の部位の昆虫が変態して役割を代替するだろう。ほんの数時間で。失われた昆虫の総数も数日から、酷くても数週間で増えて戻る。脳はなく、全身の昆虫が分散して機能を代替し、記憶も保持する。こんな生物であっても人間にする魔力が、服にはある。
だからはやしもは服を着る。
姿見を確認。自衛隊の制服を身に着けた、銀色の生き物がそこにいた。
「はやしも。準備できた?」
この時部屋に入ってきたのは、ショートカットの美少女。エススだった。彼女ははやしもの頭から尻尾の先までを見ると、接近。帽子の角度を修正する。
「おかーさん」
「なあに?はやしも」
今度はネクタイを直しながら、エスス。よし。などと呟いている。
「あっちって、どんなところ、です?」
「うーん。そうだなー。無茶苦茶広い」
「広いです?」
「そう。移動はいつも徒歩か海の中をこっそり。だからねー。人間の村と村の間はとっても離れてるし、シェルター跡や都市の遺跡なんかで機械漁りをしてるとふと。自分がとてもちっぽけな気がしてくるの。私たちのほかには誰もいないから。生き物が絶滅しかかってるから、遺跡があんまり埋もれないんだ。あっちは。赤道に近くなると移植された環境のせいで浸食されてくんだけどねー。だから北や南の端っこで、私たちは主に遺跡発掘してた。まだ無事な機械部品を手に入れやすかったから。門を修理して、改造するためにね。
あとは、樹海でキャンプするとき、ふと夜に空を見上げるとね。枝葉の向こうに人工衛星が見える。でもそれは私たちを見つけられてはいない。世界が広いから。神々だって隅々まで見張るなんてことはできない。そういう時にも、世界の広さを実感したなあ」
「おかーさん、懐かしそう。です」
「そっかなー。まあ苦労の連続だったけどね。報われたからよかったけど、そうでなかったらどうなってたか。門が開かないか、開いてもすぐ破壊されてたら。今もあの星を逃げ回ってたんだろうけど。こうしてはやしもと話をしてることもなかったんだなあ」
エススの言葉はそこで中断された。はやしもが抱き着いたからである。
「……はやしもは子供のまんまだなあ」
呟くと、撫でる。優しく。
どれほどそうしていただろうか。
やがて、はやしもは母から手を離した。
「お仕事、いってくる、です」
「うん。体に気を付けてね」
雪の中。はやしもは、荷物を手に家を出ていった。
それを、エススは見送っていた。姿が見えなくなるまで。
―――西暦二〇六二年一月。"蠅の王"級が樹海の惑星に最初に派遣された月の出来事。
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