井戸を掘るものたち
「―――素晴らしい。うまい、とは言いませんが。祖先がかつて飲んでいたのと同じ味です」
【西暦一八五〇年 神々の世界 北半球の荒野】
新鮮な水だった。
手ですくいあげたそれを口に運んだドワ=ソグは、満足げに頷いた。
跪いていた彼は、水が
「私も一口いいかしら」
「貴女はお控えくださると助かる。もうお歳なのですから。飲むなら浄化剤をお使いください」
「あら。まだまだ若いつもりなのに」
横にしゃがみ込んで来た女神の言にドワ=ソグは苦笑。ミン=アは。この、ドワ=ソグが仕える家門を配下に置く女性は、年齢を思わせないほどに奔放だ。時にまるで少女のような振る舞いを見せる。もっとも、それは優れた指導力と表裏一体な面があるのは否めないが。
横にしゃがみ込み、水をすくうミン=ア。口に含む。少々泥臭い。砂も入っている。ミネラルもたっぷりだろう。
「千年の味ね。このような井戸が消えてどれほど経つのかしら」
「もう数百年になります。大型生物が絶滅してすぐに風化し、このような自然の井戸は姿を消しました。掘るものがいなければ、風雨の浸食ですぐに消滅してしまう。惑星の姿を決定付けるのに、生命は非常に大きな役割を果たします」
ドワ=ソグが立ち上がり、ミン=アもそれに続いた。両者が見回した周囲に広がるのは荒野。遠方になだらかな丘陵が幾つも見て取れる砂漠地帯である。
しかし、そこに息づいたものたちはいた。
乾燥に強い草や低木が生え、虫は隠れ、そして。
何頭もの大きな動物たちが、四本脚で駆けていた。ここはほとんどの生物が死滅した神々の世界であるというのに。
「美しい―――」
鬣をなびかせ、栗毛で、前にのびた口と逞しい筋肉を備え、蹄を持つ、神々よりもずっと大柄な生き物たち。
野生化した馬の群れだった。
この井戸を作ったのも彼らだ。昆虫や微生物に始まり、鳥類。草。樹木。爬虫類。大小さまざまな哺乳類。それらが隔離された区画へと慎重に移植されたのだ。この、微生物すらほぼ死に絶えていた荒野へと。
結果は見ての通りだった。わずか数年でここまで復活を遂げたのだ。大地は。
「実験はほぼ成功とみていいでしょう」
「ええ。そうね。素晴らしい成功と言える。けれどこれだけじゃあ、全然足りないわ。私たちが再生しようとしているのはこの、小さな箱庭じゃあない。世界だもの」
「はい。ここに運び込んだ生物群だけでは遺伝子プールがあまりに小さすぎる。種の多様性という観点でも。やはりもっと大規模に、大量の遺伝子資源を運んでくる必要があります。それも根こそぎにする勢いで。今のような小さな門ではとても足りません」
「―――戦争になるかしら?」
ミン=アの問いかけは、今回の計画の最大の懸念だった。発見された異世界―――地球には原住知的生命体が存在する。人類、と自らを呼び習わす彼らの生物学的構造。そして文化が神々のそれと酷似している事も既に判明していた。その利用方法も。彼らに神々の文明を受け継がせるどころの話ではない。神々自身の人格。記憶。そういったものを移植できる、代用の肉体として利用できる可能性が示唆されたのだ。それも非常に安価に。
神々の文明を今の形のまま、維持することすら可能かもしれない。
もちろん人類は抵抗するだろう。その文明はいまだ神々のものと比較して稚拙であったが、神々が地球より彼らと遺伝子資源の双方を運び去ろうとするならば、死力の限りを尽くすだろうことは容易に想像できた。
「戦争、と言えるほどのものにはならないでしょう。彼らの力は小さい。少なくとも今は。
もちろん彼らの原始的な大砲や銃でも、我々を殺すことは可能です。ですがそれは旧時代の探検隊が原住民の弓矢や槍で殺傷されたのと同種の危険であり、軍事的脅威とは一線を画します。我々の兵器は彼らの軍勢を容易く蹴散らせますし、情報網を分断するのもわけはない。何なら"神"を演出してやってもいい。彼ら自身の信じる神を」
「あら。面白いアイデア。採用だわ」
「お待ちを。私たちの一存では決められません。より具体的なプランを練った上で承認を経なければ」
「ええ。もちろん。けれど叩き台くらいは作れるのではなくって?」
ドワ=ソグは頷いた。
それに満足した鳥相の女神は、うんと伸びをすると命を下す。
「ドワ=ソグ」
「はっ」
「地球侵攻のプランを作成しなさい。委員会に上奏します」
「はっ!」
【西暦二〇四一年 東京 捕虜収容所】
そこでミン=アは目を覚ました。
この、人間の少女の肉体を奪った神は周囲を見回す。そこは見慣れた捕虜収容所の一室である。年に数回の客人が来るのと、検閲された情報以外には外部との接触のない世界だ。
日本は捕虜の数がひときわ多い。最初に門が破壊された土地であるということもあるし、大阪戦役では多数の兵員や科学者、技術者が人類に降伏した。彼ら彼女らは各地に分散されて収容されているが、指導的立場にいたミン=アはとりわけ厳しい監視下に置かれている。もし人間の肉体を持っていなければ処刑されていたかもしれないことを、この女神は知っていた。
もっとも、それすらもミン=アにとっては想定内のリスクだった。異郷で果てる危険があることも。憎悪を一身に受けることも。唯一計算外だったのは天照の。いや、志織の反乱のみ。
問題はなかった。神々は目的を果たした。今は、時折入ってくる、同胞の子供について。遥かイギリスで暮らしているという男の子の様子を知るのが楽しみの隠居生活だ。こういうのも悪くはない。このまま何十年、何百年でも檻の中にいよう。
それが、今のミン=アの責務であったから。
―――西暦二〇四一年、東京にて。第一次門攻防戦の十一年前、神々の世界で遺伝子資源の移植に関する初期実験が行われてから百九十年近く経った日の出来事。
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