堕天使と火事場泥棒

「過去が無意味とは言わないが、しかしそれは参考に過ぎない。変えていけるのは現在であり、未来なのだから」


【西暦二〇一六年五月二日 メキシコ合衆国バハ・カリフォルニア州】


薄暗い空間で、名を失った堕天使は目を覚ました。

意識がぼんやりとしている。体が動かない。全身の感覚が鈍い。口の中に何かねじ込まれている。下半身にも。異様な臭気がする。乱暴に扱われているのがわかる。何が起きているのだろう。

薄目を開ける。にじむ視界には何か動くものたち。何だろうか。分からない。理解できない。はっきりしない。

混乱の中、周囲の狂乱はやがて収まりそして、堕天使は一人残された。

「……ぉ」

声が出たのは、外がすっかり暗くなったころ。指を動かす。しびれがとれてきた。視界が少しだけましになってくる。這いずる。周囲を見まわす。ようやく自分のいる場所がどこなのか分かってきた気がする。ガレージだろうか。上体を起こす。いまだに意識には靄がかっているが、兎にも角にも動くことはできる。

手を伸ばす。掴んだものは、おそらく蛇口。力いっぱい捻る。―――出ない。周囲を見回す。目に入ったのは、水のなみなみと入ったバケツ。

両手で水をすくう。口に含む。

「…ぶはっ!」

むせる。しかしそれをきっかけに、頭がすっきりしてきた。何とか座り込む。顔を洗い、口をすすぐ。頭を洗い、体を洗おうとして気が付くのは、自らの身体。肩は緩やかな曲線を描き、胸板は薄いながらも緩やかな曲線を描く乳房。下腹部はどうやら鍛えていたらしく割れた腹筋が見えるが、腰の骨盤は広めに見えた。ややスレンダーだが全体としては女性的特徴と言っていいだろう。が、それにしては妙な物体が股間から伸びているのだがこれはなんだ。体つきが女性っぽいだけで自分は男性なのだろうか。

そこで、はたと気付く。自分の格好に。体に絡まっているのは衣類とも言えぬぼろきれである。ところどころこびりついているのは腐臭のする汚液。ようやく自分の身に何が起きたのかに関心が向いてきた。というかこれは相当にまずいのでは……?

混乱する彼女は、ここから逃げ出そうとして。

「……あ」

入ってきたのは、男。お世辞にも人相がいいとは言えない、しかも肩から銃をぶら下げている巨漢はこちらを見咎めると声を上げた。

「お前―――!?」

巨漢の叫びが中断されたのは、反射的に繰り出したこちらのパンチがクリーンヒットしたからだった。それは相手の顎を砕き、三メートルも吹っ飛ばしたのである。

恐るべき威力だった。

「……へ?」

そんなパワーを込めた覚えなどない彼女は、己の拳をまじまじと見る。威力のすさまじさもそうだが、顎を砕いたというのに拳にダメージが全くない。どれだけ頑丈なのだろうか。

等と考えているうちに、どたどたと飛び込んで来たのはやはり人相の悪い、武装した男たち。

「おい、しっかりしろ!」「こいつ!」「よくもカルロスを!」

カルロス、と言うのは殴り飛ばした巨漢の名前だろうか。まあどうでもよい。それより問題なのは、武装した男たちに囲まれて絶体絶命という状況の方だ。

「てめえ!!」

乱暴に掴まれる。反射的に振り払おうとして―――

「ふげっ!?」

またも、男は宙を舞った。それもに。

無音になった。皆が茫然としていたからである。壁にめり込み、ややあって落下する、男。

「……」

残った男たちが堕天使に銃を向けた。まあ妥当な判断であろう。

「あ……やめてくれると嬉しい。かな……」

どう見ても許してくれそうには見えない。どころか、引き金に指がかけられ、それが引かれるところも。撃鉄が落ちるのも。こちらに向いた銃口の奥から、銃弾が飛び出す瞬間までもが、堕天使にははっきりと見えていた。

鉛玉の速度は、やけにゆっくりに感じた。だから手を伸ばし、掴み取る。

「……あれ?」

掌の中にあるのはなんだろう。弾丸に見えるのだが。皮膚がやや変色しているがそれ以外は無事に見える。なんだこれ。

あまりにわけの分からない状況に混乱する堕天使。一方の敵勢。銃を構えた男たちも、わけが分からない、という顔をしていた。当然だが。

「……ねえ。やめないかなこういうの。よくないよ。僕はここから出ていく。君たちは何もしない。僕もこれ以上何もしない。そういうことにしようよ。ねえ」

堕天使の理性的な提案は、逆効果だった。逆上した男たちが一斉に引き金を引いたからである。

今度も、はっきりと見えた。幾つもの銃弾の軌道を読み取り、それらの隙間に身を滑り込ませる。かわしきれないものもあったが。

「あいたっ」

肩口にめり込む銃弾をものともせずに踏み込む。嘘だ。ちょっと痛い。我慢。銃を掴む。。持ち主の顔面にパンチをぶち込む。

相手はまたも壁まで吹っ飛んだ。

残る敵に向き直る。

同じことが後二回、繰り返された。

それで終わり。

「……」

となればよかったのだが。

男たちを見事ノックアウトした堕天使は、肩口の負傷を見た。血は出ていない。というか止まっている。どころか、明らかな異常が見て取れた。肉芽が盛り上がり、銃弾が押し出される。たちまちのうちに傷口がふさがり、落下した弾丸が澄んだ音を響かせた。

おかしい。幾ら何でもこれはおかしい。わけが分からない。というか今ようやく気付いたが、自分は何者だ?名前は?ここはどこ?

何一つとして、堕天使は覚えていなかった。

周囲を見回す。なにが起きているのか聞きたいところだったが、男たちは全滅。泡を吹いて気絶している。

ガレージのシャッターを押し上げる。

広がった光景に、堕天使は息を飲んだ。

幾つもの乗り捨てられた車。散乱する鞄。靴。ぬいぐるみ。それらが見て取れるここはどうやら市街地か。しかし人の気配は限りなく薄く、漂う臭気はゴミが腐ったものだろう。遠方では燃え上がる炎すら見て取れた。

そして、銃声や爆発音。砲声。どうして今まで気づかなかったのか。いや、気付く余裕がなかったのか。

明らかな危険を見て取った堕天使はシャッターを閉めると、気絶している男たちの一人を引きずり起こした。更には活を入れてやる。

「お前たちは何者だ。外では何が起きてる?僕に何をしたんだ?」

「……ぅ」

「言わなきゃただじゃ済まさないぞ」

「ひぃ!?言う、言うから許してくれ!」

堕天使は、言われた通りにした。手を離したのである。

「……戦闘がここまで広がったんだ!俺たちは騒ぎに乗じただけの火事場泥棒だよ。ここは住民が逃げた民家だ!来る途中であんたを拾った!お楽しみの後、目を離した隙にあんたが息を吹き返して……!許して!殺さないでくれ!!」

「……戦闘?誰との?」

「神々だよ!異世界からの侵略者だ!」

そこで堕天使がもう一回ぶん殴ると、男は再び気絶。

そうだ。何故忘れていたのか。神々の下から逃げ出した。仲間を何柱も殺し、追手を振り切り、力尽きて墜落したのだ。人類と神々との戦いの最前線である、この近辺に。

堕天使は―――神々を裏切った眷属"マステマ"は、改めて己の肉体を見下ろした。

神々によって弄ばれた両性具有の体。もはや男だったのか女だったのか、自分でも思い出せない。自らの真の名も。元からそうだったのか、それとも負傷による後遺症か。

ただひとつ確かなのは、自分がかつて人間だったことだけ。

それで十分だった。

マステマは立ち上がると、男たちが入ってきた入り口をくぐった。探せばまともな衣類の上下くらいはあるだろう。服を見つけたら次はどうしよう。逃げ隠れするか。それとも、人類と共に戦うか。戦うとして、募兵事務所に行けばいいのだろうか?

先のことなど分からなかったが、それでもマステマは前へ進んだ。



【西暦二〇四〇年 メキシコ合衆国ゲレーロ州】


「いまだに記憶は戻らない。まあ諦めちゃあいるけどね」

もう何度目か分からないくらいに繰り返した話を、マステマは終えた。

軍病院の診察室でのことである。高齢で退職した前任者に代わり診察を担当する医師へ、覚えている限りの古い過去の記憶の話をしていたのだった。

「思い出したいですか?」

「あんまり。もし昔の家族や友人たちの事を思い出したところで、生きているかどうかも分からない。遺伝子戦争開戦からだってもう二十四年経つし、人口の七割が死んだ。それに僕の姿は結構有名だと思うが、それでも連絡は来ない。たぶんもうこの世にいないんだろうな」

医師に答える。神格関連技術は進歩したし、脳と神格の相互作用についての研究も著しく進んだ。思考制御が及ぼす悪影響についても。近いうちにマステマの記憶を戻す方法が(そして幾人もの人類側神格が苦しむ脳由来の障害を解消する方法が)発見されても驚きはしないが、今のところそれに魅力を感じてはいなかった。

「まあ、過去ばかり気にしててもしょうがないってことさ。僕にとってはね」

マステマの言に医師は頷くと、幾つかの項目を質問。検診を終えた。




―――西暦二〇四〇年。遺伝子戦争開戦から二十四年、人類側神格に対する思考制御破綻のメカニズムが解明されてから十九年目の出来事。

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