猛犬注意
「何事も万難を排してやり遂げるのは難しい。それが衝動的な意思に端を発していて、かつ障害が強力ならなおさらだ」
【イギリス イングランドコッツウォルズ地方 捕虜収容所近辺の村落】
ゆっくりと、景色が流れていた。
車窓から見えているのは古めかしい市街地。いや。市街地と言うほどの規模ではない。伝統的なイングランドの村落の中心である。石灰岩が積み重ねられた民家の色は灰色が勝ったクリーム色。壁も屋根も同じ素材で出来たそれらの家屋の合間には最新の技術で立てられた建造物もちらほら見受けられる。地震のすくない土地では石で作られた住居は何百年ももつものだが、人為的な破壊の前にははかない。
そんな景色をじっと見つめているのは洋服を着こんだ小さな子供。鳥相を備えた彼は、もちろん人間ではない。神々の子供。グ=ラスだった。
「面白いか?」
「おもしろい!」
自動運転の車の運転席から声をかけたのはスーツを着込んだ銀髪の少女。フランシスである。彼女はこの幼子に、収容所の外の世界を見せているのだった。
グ=ラスの目に映るのは初めての景色。人。のんびりと歩いて行く家畜。他の自動車や自転車。そういったものを彼はじっと見つめていた。
やがて自動車が停止。前方を人が横切っていくのを見届けると、自動運転の自動車は再度前進しようとして、再び停車した。
車両の機械知性が、トラブルを感知したためである。彼なりの理解。接近してくる人間の安全を確保せねばならない、という命題に従ってブレーキをかけたのだった。
「……?」
フランシスたちが目をやれば、数名の通行人がこちらに近づいてくる。ごく平凡な服装の男たちだった。村人であろう。彼らの視線は窓ごしに、幼子へと向けられていた。鳥相を備えた、明らかに人間ではない生き物に対して。
路肩からこちらに歩いてきた通行人たちに、幼子は怪訝な顔。一方危険を察知した銀髪の海賊は、後部座席に乗せて来たボディガードに出番を促した。
自動車の窓ガラスの向こうから幼子を睨む大男の表情は、お世辞にも平和的とは言い難い。
彼が窓に手を伸ばし、口を開こうとしたとき。
「こんにちは。いいお天気ですね」
後部座席の窓から顔を出したボディガードに、男たちはギョッとした。
「あ、ああ……こんにちは」
会釈を返して退散していく男たち。それはそうだろう。明らかに人間より質量の大きな猛獣が、朗らかに挨拶をしてきたのだから。
ブラックドッグ。フランシスが連れて来たこの、二本の尻尾を持つ知性強化動物の威圧感は抜群だ。悪意を持って接近してきたものたちを撃退する程度はわけもない。
安全が確保されたのを確認し、フランシスはボディガードへと声をかけた。
「ごくろうさん。お前さんを連れてきてよかったよ。
悪かったなジョージ。非番の日に連れてきちまって」
「まあこれくらいなら。どうせ暇だったし」
「……?くるま、うごかないよ」
ふたりの神格の会話に割って入ったのは状況を理解できていない幼子。彼の言う通り、自動運転車は停止を維持したままである。ジョージが通行人たちに窓を開けて応対したため、車両の機械知能が予定を変更するかどうかの確認を求めているのだった。
音声入力でドライブを続行するよう命じたフランシスは、幼子の顔を見つめる。たった今自分に向けられたのが人間の悪意であると理解していない、グ=ラスの瞳を。
今日は大丈夫だった。フランシスがいるし、ジョージもいた。少し離れた後方にも念のため、収容所のスタッフたちが乗る車も控えている。
だが成長するにつれ、この子供にかけられる
「……先が思いやられるなこりゃ」
グ=ラスの。この、神々の子の扱いについては頻繁に報道がなされているし、村落では政府の説明会が何度も開かれている。専任のチームも派遣されている。
それでも人間の意識はそう簡単には変わらない。この村も先の戦争では多大な被害を受けた。人口はいまだに戦前の水準まで回復していないし、伝統家屋も含めてほとんどの建物は再建されたか戦後に新築されたものばかりだ。その原因となった神々に対する感情が変化するには時間がかかるだろう。ましてや神々は、人間ではないのだ。
だが、幼子が人間の社会に出て行かねばならない日は迫っている。グ=ラスは4歳になった。イングランドの初等教育は5歳から始まるのだ。そして、その時期を遅らせねばならない理由は生物学的にも社会的にも、もちろん知的発達上でも存在しない。
「さき……?」
「そうだな。先に行こうか」
「うん!」
この後も一行は短いドライブを楽しみ、そして幼子を無事、両親のもとへと送り届けた。
―――西暦二〇三九年。グ=ラスが初めて収容所外で公教育を受けるようになる前年、ホモ・サピエンス以外の知的生命体が人類の学校で始めて学んでから十七年目の出来事。
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