天使と悪魔

「ここには海洋哺乳類種の四割が集っている。だから遺伝子資源の確保という観点では、戦略上の要地と言っても過言ではなかった」


【西暦二〇一六年八月 メキシコ カリフォルニア湾保護地域群】


静かだった。

上方から差し込むのはかすかな光。それは海底から登ってくる泡で乱反射し、ほんのわずかな視界を提供していた。聞こえてくる音は皆無である。

不意に光景が下方へ流れて行く。否。こちらが上昇しているのだ。たちまちのうちに海面が近づき、そして急激に開ける。水面上に出たのだった。

遠方には陸地。それ以外の三方は海、海、そのまた海―――ではない。島も見える。

そして、空を見上げれば満天の星々。絶景である。もう一つの余計なおまけさえなければ。

それは、船だった。涙滴型で、頑強な、海面下を航行するための機械が倒立し、宙に浮かび上がりつつあるのだ。全体から膨大な水量を滴らせながら。

「おいおい嘘だろ……?」

マステマは―――たった今、敵地潜入のためにあの潜水艦から出てきたばかりの人類側神格は絶望の声を上げた。無理もない。母艦が敵に撃沈されつつあるのだから。

それだけではない。

星灯りに照らされ、周囲を睥睨する巨体は四つ。神々に洗脳され、哀れな殺戮機械へと作り変えられた犠牲者たち。うち三柱は分子運動制御で持ち上げられつつある潜水艦には目もくれず、周囲へ警戒の視線を向けることを怠ってはいなかった。この数ヶ月で新造された個体ではなく、戦争の準備期間中に充分な訓練を受けた古参兵だろう。控えめに言っても最悪だった。

呆然と成行きを見守っていたマステマだったが、すぐさま正気に戻る。このまま阿呆のように奴らを見上げていれば彼女も母艦と同じ運命を辿るに違いない。

いや。すでにそうなりかけていた。

宙に浮かぶ神像たちの一体。裸身の上半身に巨大なジャガーの頭部を持つ黄色い巨神は、こちらに気付くと

分子運動制御。反射的に抵抗したマステマに対してそれは、効果を発揮してはいなかった。分子運動制御は巨神を構成する流体の基本機能の一つであり、神格は必ず一定の防御措置が施されているからだ。しかし。

―――しまった!

神格だとバレた。ただの人間が分子運動制御に抵抗できる道理はない。故に彼女は巨神を呼んだ。

灰色の霧が突如垂れ込め、密度を増し、そして実体化する。

それは、悪魔だった。

角を生やし、山羊の頭部を備え、筋骨隆々とした灰色の巨体。標準的な巨神の倍、百メートルの身長と8万トンの質量を備えた怪物が、虚空から

―――ジャガーの巨神の背後へと。

敵神は奇襲に対応出来なかった。怪物の両手に鷲掴みされると、そのままのである。哀れな眷属の亡骸は粉々に砕け散り、雨のように降り注ぐ。かと思えばそれは、海面に到達する以前に消えていった。

残る三柱は弾けるように散開。悪魔に対して距離を取り、うち二体は対決の構え。

そして残りの一体。潜水艦を持ち上げていた眷属は、マステマに向けてそれをした。途轍もない質量が急速に迫る様はまるで現実感がない。

しかしこれは夢でも幻でもなかった。対処しなければ死ぬ。

だから。

「―――ごめんよ」

灰色の霧が膨れ上がった。彼女を包み込むように出現したそれはたちまち実体化し、そして飛来した潜水艦を。まだ乗組員が生きていたかもしれないそれをのである。

衝撃。

一拍置いて、灰色の巨神から圧潰した潜水艦が

それは、天使だった。頭上には光輪を象った幾何学的な図形。甲冑と槍と剣で武装し、背中から巨大な翼を広げる灰色の威容である。天使と悪魔、ふたつの巨神こそ彼女の権能。神の権威のもと、悪魔の軍勢を率いたという天使マステマの名に相応しいアスペクトであった。

増えた敵に対して、しかし眷属どもは動揺しなかった。一体が悪魔と対峙すると、残り二体はこちらへ―――マステマの本体である天使像へと突っ込んできたのである。しかも、天使と悪魔を結ぶちょうど直線上に!

これでは悪魔像は攻撃できない。虚空から掴みだした燃える硫黄を投射すれば、マステマ自身にも命中するだろう。

―――嫌な奴らだな!

接近してきた二柱の眷属。彼らの猛攻に槍と剣の二刀流で立ち向かうマステマの技量は並ではなかったが、しかしそれですら時間の問題だろう。

このままでは死ぬ。運命を変える術はマステマにはない。

だから、彼女を救ったのは自身の力ではなかった。

突如、悪魔像と対峙する眷属の巨体。1万トンの質量が、。遥か西、十キロメートル以上の距離を隔てて投射された火球を受けて。

残った眷属たちの間に動揺が走る。一瞬の隙。

マステマの突き出した槍は、眷属を貫いた。五十メートルの巨体が砕け散る。

最後に残った眷属は距離を取ると、周囲を一瞥。陸の方へ身を翻すと飛び去った。

マステマは、ひとまず生き延びたことを悟った。

視線を水平線上に向けた彼女が見つけたのは溶岩の如き巨神。ポリネシア神話をモチーフにしたのだろうか?赤く輝く女神像である。それはしばしこちらを見つめていたが、やがて身を翻すと、彼方へ飛び去った。

呆然としていたマステマだったが、気を取り直すと自らも飛翔した。任務を果たすために。


【西暦二〇二六年 メキシコ カリフォルニア湾保護地域群】


「とまあ、そんなことが昔ここであったのさ」

そうして、マステマの語りは終わった。

船の上でのこと。メキシコ政府の依頼で訪れたリスカムらリオコルノたちは、この英雄の話を静かに聞いていた。

「ペレちゃんも、ここで戦ってたんだ……その後どうしたんですか?」

「任務はさんざんだったよ。尻尾を巻いて逃げ帰ったさ。

ま、そんな理由で、この海域にはたくさん船が沈んでる。敵味方ともに。

生態系の宝庫だからねここは。

君たちを呼んだのも、分子運動制御に優れてるからさ。船をサルベージするにも手が足りてないから」

説明するマステマは女性用の水着の上から上着を羽織っている。引き締まった中性的な体躯は、股間の膨らみがなければ女性と勘違いさせるだろう。

もっとも、彼女は男性でもない。神格の中でも珍しい両性具有者である。また、神格名を名乗っている数少ない人類側神格でもあった。人間だった時の名を思い出せないのだ。思考制御の後遺症と言われている。

「さ。明日から仕事だ。頼りにしてるよ」

人類側神格は、ニッコリと笑った。



―――西暦二〇二六年。遺伝子戦争終結の八年後の出来事。



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