受け継がれるもの
「人間の回復力は驚異的だ。だからそれが人を殺しても、なんら驚くべきところはない」
【東京 国立がん医療センター】
病室を辞そうとしていた志織は振り返った。
「起きておられたんですね」
「うとうとしていただけだよ。気配で君とすぐわかった」
ベッドから顔だけを向けてくるのは都築博士。ここしばらくの闘病生活で随分とやつれてはいたが、しかしその鋭い知性の眼差しはいささかも衰えてはいない。
「病院は暇でね。寝るくらいしかすることが無い。睡眠不足はよろしくないが、かといって寝過ぎも体に悪いんだがね」
「睡眠は普段からとっておられたんですか」
「もちろんだ。頭脳労働に睡眠は必要不可欠だからね。ノンレム睡眠中の脳は記憶の再構築と強化を行うから。神経細胞どうしの不要なつながりを断ち切ってね」
「そこまで分かっているなら、頭だけではなく他の部分の健康にも気を使った方がよかったのでは。刀弥君がいつも愚痴をこぼしてましたよ。お酒をたくさん飲むって」
「それを言われるとつらいものがあるね。まあ人間、自分だけは大丈夫という心理が働くものさ。生存バイアスだな。自分の身で体感するとまた違った感想になるが」
「もう」
志織は苦笑すると、椅子に腰掛けた。まだ時間はある。仕事の合間、暇を見つけて彼女は見舞いに訪れたのだった。
「私の神格が環境管理型なら治して差し上げたんですが」
「ないものねだりをしても仕方ないさ。それに君はその力で、既に何億という人を救っている。一人取りこぼしたくらいで、気に病むことはない。それが知人でもだ」
「はい」
環境管理型神格は、今の所人類には手の届かない技術の一つだった。ようやく神格を完成させたばかりの人類にとっては、要求される技術レベルが高すぎるのだ。その完成にはまだ、何十年もかかるだろう。
それ以外のテクノロジーに関しても、人類が自分のものとできるのには時間が必要だった。遺伝子戦争で失われた人口は全体の7割近くにも及ぶ。世界を復興するのに手一杯で、神々のテクノロジーの解析に回せる人材や資源には限りがあるからだ。むしろ現状を考えれば人類はよくやっている部類だろう。
「医者にはがんが転移していると言われたよ。相手は、生命の驚異的な回復力の根源だ。厄介なものさ。血液の流れに乗って、がん細胞は体のどこにでもいける。広まってしまえば一つ一つ虱潰しにするのは不可能に近い。それこそ環境管理型神格が必要だ。各国で研究されているマイクロマシン治療も、実用化まであと数年はかかる。
我々はまだ、治療に使う道具を作るための道具を作るための道具を作る、という段階にいる。それを思えば、いい仕事ができた。神々と比べればずっと稚拙な設備で、知性強化動物と神格を作れた」
「先生。まだまだこれからですよ。私達の挑戦は」
「そうだな。まだ形にしたいアイデアは無数にある。
だが、私と同じことを考えている科学者はたくさんいる。私がいなくなっても、彼らが新たな知性強化動物を作るだろう。
数年前、野心的な若者に会った。根本的に人間を凌駕する頭脳と肉体を備えた知性強化動物を作る、と言っていたよ。彼ならやり遂げるだろう」
「先生……」
「人類の強みは知識を共有し、それを基盤としてより発展させていく事だ。その仕組みがうまく働く限りは心配はいらない。
我々は二百万年かけてここまで来た。次の二百万年もきっと大丈夫。いや。太陽の寿命が尽きる何十億年先をもきっと乗り越える。
それと比較すれば、人間一人の生命なんて元々無に等しい。
志織さん。これから来る別れは、いずれ訪れるはずだったものだ。ただ予定よりほんの少し、早まっただけさ。
だから泣かないでほしい」
言われて初めて、志織は自分が涙を流していたことに気がついた。先の戦争でも流すことはほとんどなかったというのに。
「一つだけ心残りがある。息子のことだ」
「はい」
「刀弥のこと、頼めるだろうか」
「ええ。ご心配なさらず」
「よかった」
都築博士はそのまま目を閉じ、そして眠りに就いた。
志織は静かにその場をあとにした。
―――西暦二〇二二年。国立がん医療センターにて。第二世代型の知性強化動物誕生の十年前、人類製第二世代型神格が実用化される十二年前の出来事。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます