文化と人と
「文化は人間を不死にする。何千年ものときを隔てて未来のひとと対話することができるんだ」
【上野 東京国立博物館】
広大な空間だった。
貴重な文化遺産を保護するために弱めに設定されたライト。それは、この場所の主役を浮かび上がらせ強調する役割を果たしている。博物館の役目である収蔵品の保護と公開という相反する目的が、幻想的な空間を演出しているのだった。
「人間を他の生き物と隔てているのはなんだと思う?」
「うーん。知能……いや、文化?」
都築親子が差し掛かったのは書跡の展示である。
医心方。平安時代に記された、日本最古の医術書であった。
都築博士は息子の回答に満足したようにうなずいた。
「文化は人間に———いや、知的生命体に固有のものだ。知的生命体は、他の個体のやり方を模倣する。それも非常に正確にだ。世代を超えて知識を伝達する能力を、進化の過程で得て行ったからだ」
ふたりの男はゆっくりと順路を進む。はるなのいない久しぶりの休日。彼女は一人前になった。戦闘用生命体として完成したのだ。都築家はこれからも彼女の帰るべき場所ではあるだろう。しかしその頻度はずっと減る。次に刀祢がはるなと会う機会は、何か月も先になるはずだった。
「知識や技能をうまく模倣できれば生存に有利になる。だから、霊長類は視覚。視覚と運動の協調。そういった、模倣に役立つ脳機能を発達させてきたんだ。文化の継承は遺伝子の継承と同じく、人間にとって重要なんだ。いや、文化こそが知的生命体の本体と言えるかもしれない」
やがて差し掛かったのは彫刻のコーナー。シルクロードを経て日本に到来したガンダーラ美術が陳列されている。
「文化の本質とは、コミュニティのメンバーが共有する行動パターンだ。途方もない歳月の間繰り返されてきた、模倣と改良を経て、文化はここまで進化してきた。
それだけじゃない。文化は、社会のありようをも変えて来た。大きな集団で他の個体と長時間過ごせばそれだけ学習の機会が増えるからだ」
「じゃあ、大きな社会集団を作れば、他の霊長類でも複雑な文化を持つの?」
「可能性はあるな。けれど難しい。結局のところ、文化の発展に重要なのは情報をいかに正確に伝達できるか、だ。人間はそれを可能にする方法を発見した。
教育だ。
模倣は自然界にありふれているが、教育となると話は違う。人間だけが教育をする。後の世代が情報を獲得するのを期待するだけじゃない。自分から能動的に、情報を伝える手助けをする事を私たちの祖先は選択したんだ」
視界に入ってきたのは見事な絨毯。
「教育は言語の出現する背景になった。人類が———人類と神々だけが言語を持つのは、教育のためだ。言語は教育の負担を下げる。精度を上げる。範囲を広げる。
文化は食料の確保や生存に有利に働いた。技術が生まれ、進歩し、社会は次第に効率化していった。人口増加と社会の複雑化は同時に起こった。
人間という種族を作ったのは人間自身だ。文化は人間によって進化し、人間は文化によって進化してきたから」
幾つもの展示の間を抜けながら、都築親子は進む。幾多の戦禍。災害。そして———遺伝子戦争。それらを潜り抜けてきた、人類の歴史そのものを見て。
「刀祢。近いうちに、手術を受ける事になった」
「手術?」
「ああ。胃がんだそうだよ」
「―――マジ?」
「真剣だとも。まあ大丈夫。五年後生存率を聞いたが、そんなに悪いものではなかった。お前が大学を卒業するまでは生き延びてやるさ」
「本当に大丈夫なの?」
「脊椎動物の生物学的不死化が可能な時代だぞ。大丈夫。人類を信じろ」
「わかった」
この後、博物館を出た二人は昼食を取り、東京をしばし散策した。
病気についての話題を出すことはなかった。
—――西暦二〇二二年四月。都築博士が亡くなる前年。焔光院志織が都築燈火の残した手紙を手にする三十年前の出来事。
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