第340話

「ショーちゃん……」

「シャマーさん……すみません!」

 俺はそう言うと素早く立ち上がり、窓の外へ身を乗り出し口から思いっきり嘔吐した。

「えええ!?」

 ぐぱっ、ぐぱっと少しの間を空けながら俺の口から吐瀉物が出て行く。と言っても胃の中に大したものは入っていない。さっき飲んだ謎のハーブティーと、ゴブろくと、後は大半が胃液だ。

「大丈夫!?」

 シャマーさんが急いで駆け寄って俺の背中をさする頃には、リバースはほぼ終わっていた。

「だ、大丈夫です。ちょっと気持ち悪くなって……」

 情けない顔を見せたくなくて、無礼だが彼女から目を背け窓の下を見る。夜間なのではっきりは見えないが部屋及びその窓は崖からやや突き出した所にあり、下は川だ。二次災害は無いだろう。

「ごめんねショーちゃん、お茶とか合わなかったのね?」

 視界の端のシャマーさんは心底、申し訳なさそうな顔で俺の後頭部を撫でる。

「それもありますが、口移しで呑まされたゴブろくが空きっ腹に……」

 それ以外にも布団運びの重労働とか謎のお香の匂いとかシャマーさんの身体の上で微妙に揺れたとか色々な理由が考えられるが、説明するほどの余裕は無かった。

「ちょっとこっちで横になろうね」

 シャマーさんは浴衣の袖で俺の口を拭うと、肩を貸して先ほどの布団の方へ俺を運ぶ。汚いし恥ずかしいしどちらも止めようと思ったが、まだ微妙に痙攣を続ける俺の胃が抵抗を許さなかった。

「すみません、俺、酷い臭いで……」

「そんなことない! ショーちゃんはいつも素敵な香りよ。ね? 俯せと仰向け、どちらが良い?」

 少し驚くような速度で俺の言葉を否定したシャマーさんは、布団で俺と一緒にひざまずいて聞いた。

「えっと、俯せで……」

 実は運ばれている際に大きく開いた彼女の胸元が見えて、何というかその奥の何もつけていない控えめな胸の全てが見えて、俺は酷い体調にも関わらず身体が説明のし難い状態だった。

「りょーかいー。じゃあゆっくり……どーん」

 そんな俺を知ってか知らずか、シャマーさんは和ませるかのようにおどけた口調で俺をゆっくりと布団に寝かせた。

「ありがとうございます……」

 俺は今さっきまでシャマーさんが寝ていた場所にほぼ同じ姿勢で倒れていた。そこからは『素敵な香り』どころではない良い匂いがした。

「換気して匂いを消して胃が落ち着くモノを作って……。心配しないで、すぐ戻るからね、ショーちゃん」

 シャマーさんはやる事を指折り数えて、それから俺に声をかけて視界から消えた。

「すっ、すびばせん……」

 まだ口に気持ち悪い何かが残っている上にまくらに押しつけられた唇が上手く動かない。俺は少し首を動かして何とか彼女の方を見た。

 シャマーさんは窓や引き戸を開き浴衣の袖を上に向かってパタパタと振って風を送っていた。やがて顔に手をやって何か考え込み――いつものようにその愛らしい唇を摘んでいるのだろう――呪文を詠唱し始める。

「うーん、ちょっと強いかなー」

 やがて緩やかな気流が発生し、彼女の薄いピンクの髪と裾を揺らした。それで部屋の中に漂っていたお香っぽい香りと酸っぱい臭いが一気に薄らいでいく。

「うん、これで良いか。後は……拭くものを二枚ね」

 そう言いながら台所の方へ消えていくシャマーさんの後ろ姿を見ながら、俺は自分の中の信じ難い衝動に気づいて愕然としていた。

 彼女を抱きたい、という衝動に。


 ここまでピンチが無かった訳ではない。シャマーさんは普段から割とそういう方面の悪戯をしかけてくるし、レイさんはまあまあ真剣に俺とそういう関係になろうとしているふしがあるし、他の選手だって冗談のネタに使ってくる事もある。

 そうした際に、俺もまあ人並みの感覚を持っている生物でもあるので、ムラっとこない訳でもない。

 だがそれは所謂『反応』であって、俺の主体的な感情ではない。起点となった対象や物事が消えれば収まるしその事がが分かっているし、対処はできていた……筈だ。ピンチはあったが。

 だが今のは違う。今の俺は、ただパタパタと動き回るシャマーさんを横になって見ていただけで、彼女を欲しいと思っている。

 こういう気持ちになったのはたぶん初めてで、その処し方が分からない。もちろん、行動に移すのは間違っているしやる訳がない。問題はなぜこんな心の動きが生まれたのか分からず、どう処理して良いか分からず、今後もまた起きるのか起きないのかも分からない事だ。

「くっ!」

 俺は歯を食いしばって目をきつく閉じた。俺の人生経験上、物事から目を逸らしちゃんと見なかった時に限って悪いことが起きる。直近で言えば宴会場のゴブろく事件が正にそれだ。部屋を暗くせずちゃんと選手達に目を向けていれば、酒を回し呑むのような行為は止めれた筈だ。

 だが今の俺には目を閉じる以外に出来る事が無い。

「あれー? ショーちゃん寝ちゃった?」

 そんな声が聞こえ、シャマーさんがすぐ脇に座ったのが感じとれた。

「あ、スゴい汗ー! やっぱり二枚持ってきて良かったー」

 彼女はそう言いながら濡れた手拭いで汚れた俺の口元を拭き、そして恐らく別のに取り替え額や首もとの汗をふき取ってくれた。

「ちゃんと全身を綺麗にしたいけど。まあ意識ある方が辛さを感じてしんどいよねー。ごめんね、ショーちゃん。おやすみ、ゆっくり休んでね、ちゅ」

 シャマーさんはそう言うと俺の額にキスをし、その場を離れた。謝りたいのはこっちの方だ。今だって俺の身体を拭いキスをする彼女の腕を掴み、押し倒したい衝動と必死に戦っていたのだから。

「よし、私も寝よう」

 その声に続いて窓や引き戸が閉まる音が聞こえた。やがて灯りも消え、少し離れた別の布団――今更だが同室はステフで、当然のごとく彼女は宴会場で派手に酔いつぶれている――に入る気配がした。

 俺は目を開けやがて目が闇に慣れて、スヤスヤと眠るシャマーさんと、俺の脇に置かれた二枚の手拭いが見えてきた。

 眠るシャマーさんを見るとまだ難しい衝動が疼く。だが俺の側の薄い布切れ二枚が、とんでもなく分厚い壁になって俺をその場に止めていた。

 一枚の手拭いを口元に使用した後、裏側だとか逆の端だとかを使っても別に良いではないか。俺はそんなの気にしない。

 だがシャマーさんはわざわざ別の物を用意した。そんな気遣いができる優しい子を、衝動的な行動で傷つけたり悲しませたりする訳にはいかなかった。

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