前のエピソード――第300話

『ぶんぶんうぜえんだよハウリングか！』

　ティアさんが何やら叫びながらポジションを離れ、自分のサイドのIHまで一気に距離を詰めた。ケンドール選手のパスがやや緩く、上手く入れ替わって前でボールを奪えそうだったのだ。

「駄目だティアさん罠だ！」

　俺はそう叫んだが、例えティアさんが日本語を理解していても間に合わなかっただろう。蜂のような姿のIHは迫る右SBを黄色と黒のお尻（？）で上手くガードし、ワンタッチでケンドール選手に返しながらティアさんと一緒に地面に尻餅をつく。

　そして蠍の身体と人間のような顔を持つ蠍美女は帰ってきたボールをダイレクトで前へ送った。本来ならティアさんが見ている筈であった、左WGの所へ。

『ムルト、お願い！』

　シャマーさんがマークを受け取りつつ旧友に指示を出す。普段であれば残った3名でオフサイドトラップをかけていたかもしれない。だが今日の左SBはガニアさんだ。阿吽の呼吸でシャマーさんに合わせるハーフエルフではない。

『もう！　捻くれた回転ですわ！』

　シャマーさんの判断はそれほど間違いでもなかった。リーチも守備範囲も長いムルトさんの足が、もう少しでボールに触れる所であったからだ。　

　だがケンドール選手はノートラップで蹴ったにも関わらず絶妙な回転をボールにかけ、パスは蠍の尻尾のように緩やかに外へ曲がってムルトさんから逃げるようにWGの元へ走った。

「うわ、うっま！」

　味方のピンチにも関わらず俺は感嘆の声を上げていた。何故なら俺は、最初の緩いパスからケンドール選手の仕込みである事を分かっていたからだ。

　遅く短いパスで相手を引きつけ、味方にリターンを貰ったあと素早く空いたスペースへパスを送る……。一流のレジスタ――ボランチの中でも特にパスや攻撃の構築に秀でた選手につけられるポジション名で、『演出家』という意味だ――達が得意とするプレイ。

　その演出の前では、インセクターだけでなく対戦相手である筈のアローズDF達も登場人物の一部となる。カバーの為にムルトさんも中央を離れ、CFのマークにはシャマーさんが付き、インセクター左WGの前には無人の芝が広がっていた。

『来るぞ！』

　ニャイアーコーチが叫ぶ。分析してきた通りインセクターチームは守備的ポゼッションチームで、攻撃権を保持してもなかなか攻めずパスを回し続けるし、良い形で快速WGにボールが入っても余程のチャンスでなければ縦に突破してクロスを入れてきたりしない。

　問題は、今回のが『余程のチャンス』である所だった。

　シャマーさんは優れたDFではあるが、決して高さのあるタイプではない。読みの早さとFWとの駆け引きでボールを奪うタイプである。一方、インセクターのCF、カブトムシに似た外見の9番はリーグ屈指のデカくて堅い――実際、外骨格だし角もあるし――タイプのFWである。平面の勝負は兎も角、空中戦ではやや不利とみていた。

　故に高いボールは可能であればGKが処理をし、シャマーさんはこぼれ球の対応に回るという決まりになっていた。

　しかし、この時右サイドを駆け上ったWGが放ったクロスは、低くて速いボールであった。

「おおい、危ない！」

　インセクターのCFが入ってきたボールの軌道を変えるタイプのダイビングヘッドを試みる、それに身体をぶつけながら狙いを少しでも外させようとシャマーさんも頭から飛び込む、それに……何故かGKのユイノさんもキャッチを試みて飛び出す、という出来事が一瞬で起きた。

『クリアー！』

　ニャイアーコーチが大声で叫んだ。恐らく実際にプレイしているGKの気持ちになってDFに指示を出したのだろう。だが三者のもつれ合いによりペナルティスポット付近に落ちたボール――俺の角度からでは最初に誰に当たりどういうリバウンドをしたのかは分からない――に追いついたのは、ティアさんと競り合ったのとは逆のIHだった。

『ゴーール！』

　ストーンフォレストに申し訳程度の絶叫アナウンスが響く。インセクターのIHが無人のゴールに蹴り込んで先制。前半19分、0-1。