真焉_3 世界の記憶



 聞きたいことは色々ある。

 しかし、そうしている時間はない。


 押し戻した影が再び数と勢いを増して襲い掛かってきた。


「お手伝いします」

「頼みます」



 動き出したネネランと共に影を駆逐していく。

 強い。

 頼もしい。

 仲間がいるということがこんなに心強いとは、久しく忘れていた。



「エステノが――」

「……はぁ」


 戦いながら、ネネランが溜息を吐くのが聞こえた。

 立動塑体とやらは呼吸を必要としないと思うが、胸中を察して言い直す。


「エシュメノが、助けてと」


 文字は掠れて読めなかったのではない。

 下手で、あと間違っていて、読めなかったのだ。

 それがネネランを嘆息させた。



「アヴィを、助けて。と」

「お察しの通り、アヴィ様はこの奥です」


 ネネランは知っている。このネネラン七號とやらは。

 彼女は先にアヴィと共にここを進み、何かの理由で閉ざしたのだろう。そして命力が尽きて石像となっていた。

 エシュメノは外に出てルゥナに助けを求めた。まだ眠っていたルゥナに。



 世界が枯れ果てる。

 全てが失われてしまう。だから助けて。アヴィを助けて。



 アヴィはこの異変に先に目覚め、ルゥナに黒布を残していった。

 しかし、アヴィとエシュメノが揃っていてさえ対抗出来なかった異変とはどういうことなのか。

 地上にいたマルセナは影を生んでいたのではない。抑え込もうとしていた。

 異変の中、永劫の氷の中にあったはずのマルセナも目覚めたということ。


 ここは、かつての黒涎山だ。



  ※   ※   ※ 



 影を倒しながら地下へと進み続けた。

 辿り着いたのは、地中にしては随分と広い空洞。

 黒い椀を、逆さに被せたような。


 魔神の神殿、とは誰が言ったのだったか。

 黒く塗り固められた半球状の空洞の中にいた。



「あぁ……あぁ、私は……」

「……アヴィ」


 嘆き伏せる彼女がいた。

 アヴィの嘆きが響くたびに、足元から影が生まれてくる。

 彼女の足元には濁った黒い水が溜まっていた。かつて濁塑滔と呼ばれた、命を食らい続けた粘液。


「あの子が、私を……私がまた、あの子を……人の子を、殺してしまう……」

「アヴィ」

「あの子が……私を殺しにくる……早く、来て……」



 嘆いていた。

 気に病んでいたことは知っている。

 人を滅ぼす際、アヴィは幼子を殺すのを誰かにやらせようとはしなかった。頑なに。


 自分でやらなければいけない。

 誰かに押し付けない。

 そう律していたのは間違いなく心に重いことだったから。



「消えてしまう……全部、消えてしまう……私が……」

「アヴィ、貴女の――」

「お気を付けください、ルゥナ様」


 近付こうとして、ネネランに肩を掴まれた。

 目線で上を指す。

 この聖堂のような黒い空間の天蓋を。



「アヴィ様の傷を抉り、利用している者です」

「……」


 黒い空間の中に濁ったもや

 言われなければ気が付かなかった。

 アヴィの頭上で、彼女に囁きかけるように、嘲るように嗤う姿。



『僕のものだ』



 不快な嗤い声。

 聞き直す必要もない。忌むべき男。流郭のダァバ。



「お前がアヴィを……」

『僕のものにならない世界なんて必要ないんだ』

「勝手なことを」


 自分が踏み躙ったくせに。

 裏切り、汚した。ダァバ自身の行いがダァバを排除させたのに、思い通りにならない世界だと逆恨みを。


 恨み。

 怨嗟の魂だけで世界にへばりつき、こんな風に世界を枯らした。



『これがいれば……これがあればいくらでも影を生みだせる。全てを滅ぼして、全てを奪ってやる。はは、あはははっ』


 アヴィと、アヴィに寄り添う濁塑滔。

 世界全ての命を奪い、その力でまた影を生みだして滅ぼし続ける。

 世界が枯れ果てるまで。



「最初は小さな異変だったのですが」


 ネネランが戦いながら補足する。


「日に日に増えていった影が命あるものを飲み込んでいきました。エシュメノ様がここに向かう際にアヴィ様が目覚められて」

「アヴィが……」

「共にここまで来たところで、そちらの外道の呪いの言葉がアヴィ様を」

「……」



 アヴィが我を失い、エシュメノは撤退した。

 ネネランはこの洞窟を塞ぐ為に残った。


「アヴィ様の嘆きが近くで眠っていたマルセナ様を呼び起こしたようです。彼女もまた、人間の死に思うところがあったようですから」

「イリアのことですね」

「マルセナ様もゲイル様の性質を帯びていたようです。正気ではありませんでしたが、少しでもここから影が漏れ出さぬよう塞いでくださっていたようです」



 先に目覚めたアヴィは、ゲイルと共にここに来た。

 眠るルゥナに、彼女の大切な黒布を残して。

 エシュメノは手傷を負っていたのだろう。ルゥナの下まで辿り着いたが、目覚めさせることが出来ず力尽きた。


 あの様子からすれば、相当な年月が過ぎている。

 世界の全てが死に絶え、ルゥナだけが残るほどの歳月。


 ネネランが既に生物として清廊族でないのとは別に、ルゥナもアヴィももう清廊族ではないのか。

 あまりに長い年月を濁塑滔の中で眠り、アヴィとルゥナの存在は別の何かとして世界に認識されている。

 だから飲食を必要とせず、時間も関係ない。



「私は……私が、世界を……滅ぼしたの……」

「アヴィ」


 ずっと心に刺さっていた棘が、ダァバの呪いの言葉で耐え切れないほどの痛みになったのだと思う。

 本来のアヴィは、戦いなどに向いた性格ではない。優しく、当たり前の穏やかな日常を過ごすべき女だった。

 彼女の傷を利用して戦わせたというのなら、ダァバだけではない。ルゥナもまた同じ。


「今、助けますから」


 終わらせなければならない。

 自らを責め続けるアヴィ。永劫の悲嘆を。



『世界は終わる』

「終わる……」

『終われば、また始まるんだ。やり直せるんだ』

「やりなおし……また、始まる……また」


 ダァバの甘言。

 愚にもつかない戯言。あるいは己の願望をアヴィに吹き込んで。

 実体も命も失った存在が、見苦しく世界にへばりついて妄言を並べる。




「ルゥナ様、他は私にお任せ下さい」

「ええ」

『相変わらず馬鹿な奴らだね』


 ダァバの嘲笑に続けて、壁から、地面から、これまでとは違った影が姿を現した。

 それぞれ形が違う。鳥のようであったり、剣腕を持つ蟻であったり、狼のようなものも。

 それら全てが、生きていれば伝説と呼ばれるに値するほどの力を持つ敵。


『僕にどれだけ時間があったと思っているんだ』

「く……」


 アヴィに近付くどころではない。

 一対一でも五分という敵を並べられ、嗤われる。

 時間は限りなくあっただろう。影が飲み込んだ中から選りすぐりの強者を抜き出し、手駒とするくらいの時間は。

 エシュメノが後れを取ったのも無理はない。



『はは、あははっ! 僕の勝ちだ。今度こそ僕の――』

「相変わらず」


 ネネランが嘆息した。


「相変わらず、愚かな下衆でございます」

『……負け惜しみを』

「ネネランにどれだけ時間があったと思うのでしょうか。外道とは違い、無為に命を奪えなかっただけで」



 ネネランの懐からいくつかの木板が取り出された。

 それぞれ中央に窪みがあり、複雑な模様と文字が掻き込まれた木板。


「立動塑体の央核です。十分な命力さえあれば、短時間なら外殻も形作れます」

「……みんな、の?」

「ルゥナ様」


 ネネランは、寂しかったのだろう。

 壱角のエシュメノは生きる時間が違うと知り、彼女を残して消えてしまうことが。

 だから自分を残す研究をした。エシュメノを孤独にさせないよう。

 他の仲間たちの記憶も、世界に染みついているのなら。物語を語り継ぐものは失われても、まだルゥナ達の記憶には残っている。ここに形代があるのなら。



「世界に色を、取り戻しましょう」


 その為に歩き回ったのか。

 世界に残った色を拾い集めてきた。ここにある。



「ありがとう、ネネラン」


 集めてきた石が吸い込まれるように木板に嵌め込まれた。



 炎のように赤い石が輝くと、ぐっと拳を握ったミアデの姿が。

 大蛇の抜け殻から得た紫の石は、その石と同じ色の杖を手にしたセサーカが。


 琥珀色の石が吸い込まれると、弓を手にしたニーレが静かに顔を上げる。

 雪のように白い石からは、隻腕に大薙刀を手にしたウヤルカ。にっと笑った。


 黄土色の石はティアッテの亡骸からだったけれど、メメトハが生まれる。細い金糸の髪が輝く。

 姉妹一対の翔翼馬だったのだろう白と黒が混ざった石から、灰色の娘。トワ。

 命力さえあれば組み合わせに意味はなかったのかもしれない。



「ルゥナ様、周りはお任せください」

「頼みます」

『また僕の邪魔をぉ!』


 他との戦いを仲間に預け、アヴィの下に向かった。



  ※   ※   ※ 

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