【終幕・真焉】ほどいて、紡いで

真焉_1 失くした色 



 指の間から擦り抜けて、零れ落ちてしまう。

 愛しいもの。


 本当に愛しく大切なものほど、儚く不確かで掴めない。

 するりと抜け落ちて消えてしまう。


 だから今日も。

 今も。


 私の指には、微かな感触だけを残して。

 ここにあったはずなのに。確かに繋いでいたはずなのに。



 最初から何もなければ、こんな寂しさを知ることもなかった。



  ※   ※   ※ 



 薄ぼんやりと周りが見えてくる。

 暗いのか、そうではないのか。色がわからない。


 手から薄れていく感触に連れて意識が戻る。

 眠っていた。

 ずっと眠っていたのだと、ゆっくりと自分を認識していった。



「……」


 どれくらいそうしていたのだろう。

 ひどく長い時間だったような気もするし、目を閉じて再び開けるまでのわずかな時だったようにも思う。

 記憶を引き寄せようとしたけれど、手から離れた感触と共に遠くへ逃げてしまった。



 認識できるのは、自分を形作る境界と、それ以外。

 のそりと体を起こした。

 ぱらぱらと渇いた塵が落ちた。




「……」


 見回す。

 色の無い世界。

 光と影だけで織りなされる灰色の世界。



 周囲は丸く縁どられていた。

 円環の中で眠っていた。何かを握り締めて。


 自分を視認してみた。

 灰や塵に塗れた自分の体。両腕に巻かれた黒い布だけがほんの少しの熱を与えてくれる。

 こんな渇いた中でただ眠っていたのか。



 丸く縁どる周囲の境に、一カ所だけ盛り上がったところがあった。

 立ち上がり、近付いてわかった。

 小さな体の何か。既に命はなく、周囲の景色と同じく灰色の塵に変わろうとしながら、かろうじて形を保っただけの。



「……」


 その脇の石面に文字が刻まれている。

 風化したせいか、あるいは元々の文字が拙かったのかひどく読みづらい。



「あ……?」


 文字を消さぬよう注意しながら灰を払い、目を凝らして読んでみた。


「あび、い……たすけ、て……あびい……?」


 あびい……アヴィ。

 助けて、アヴィ。


「えす……えすて……の?」


 エステノ。

 この小さな亡骸の名だろうか。

 アヴィに助けを求めてここまで来て、眠るアヴィに言葉を残した。



「あ……」


 光と共に風が吹いた。

 周囲を囲んでいた壁の一部が崩れたのは、私の声が響いたからか。

 風が吹きつけると、かろうじて形を保っていたエステノだったものも崩れ、塵となって消えていく。



「……」


 差し込んだわずかな光に煌めくものが。

 塵となったエステノの下に落ちていた石。


 光を受け、深緑色に反射する石。



「……色が、ある」


 他のものは全て薄汚れた白か、黒か、灰色か。

 枯れ果てた風景の中に一つだけ、深い緑色が色を落とす。



 大切なものだと感じた。

 触れていいのか迷い、躊躇い、拾い上げる。

 かすかな温もりは錯覚なのだろう。光の角度が変わってくるりと中で輝くそれは、優し気な瞳のよう。


「エステノ……」


 思い出せない。

 何も思い出せないが、胸の奥に何か引っ掛かる。湧き上がる気持ちがあった。



 腕に巻かれていた黒布を外して、深緑の石を包んだ。

 持ち運ぶのにこうした方がいいだろうと思って。

 失いたくないと、その気持ちだけは確かなものだった。



  ※   ※   ※ 



 抜けた穴から外に出た。

 しかし、雰囲気は中と何も変わらない。



「枯れてる……」


 色の無い世界。

 空には灰色の雲が立ち込め、薄ぼんやりとした光が差すだけ。


 山中、なのだと思う。

 隆起した大地とかつては水が流れたような跡。

 わずかに立つ木々に葉の一つもなく、幹も枝も煤けた黒。

 岩はもちろん、土までも灰に変わってしまったかのように薄汚れた白。



 枯れた世界。

 火鉢の灰で世界を染めればこんな姿になるのだろうか。


 当てはない。導も無い。

 ただ気持ちの向くまま、山を下った。



 どれだけ歩いたのだろうか。

 呼ぶ声が聞こえたような気がして、東に向かい歩き続ける。


 崖に辿り着いた。



 断崖。下には深い霧が立ち込め、何も見えない。

 引き返そうかと思ったところで、空が割れた。



 空を割り、旋風と共に襲ってきた翼のある四つ足。

 激しい戦いの末、私の拳が四つ足の体を貫いた。


 塵となって消えていく中、これもまた色を残した。

 茶色。琥珀色の石。


 それを黒布に包み、今度は西へと足を進めた。



  ※   ※   ※ 



 崖沿いに北西に進むと、また大地の裂け目に当たった。

 相変わらず色のない景色。

 けれど、妙な質感のものがあれば目に留まる。


 巨大な筒状の薄皮。

 裂け目に引っ掛かり、風に揺れていた。


 鱗のような模様が残るそれは抜け殻だったのだと思う。

 私が触れると薄皮は崩れ去り、今度は淡い紫色の石が残った。




 そのまま西に向かい続けると、今度は大きな窪みに当たった。

 幾筋ものうねるような跡は、かつて多くの水を湛えていたのだと想像する。


 巨大な水溜まりだった場所。

 流れで削られ、残った襞の姿。そこに差す光と影だけの景色。


 色の無い世界。

 だからこそ目立つ。青色のその小さな輝きを拾った。




 西の果てまで着くと、打ち付ける波も黒々としていた。

 白い飛沫と相まって灰色の海。


 そんな海を睨むように立つ姿の像を見つけた。

 甲虫の尾を生やし、巨大な斧を手に南西に向かって立つ女性の像。


 触れると崩れて、中から黄土色の石を拾った。




 反転して歩き出す。今度は南東に。

 西や東など、何を根拠に考えていたのか。

 記憶は薄れたままだが、身に染みついた何かがあるのかもしれない。




 何かが見えてきた。

 天まで届くような巨大な柱。

 柱というか、巨大な壁のようにも思う。とてつもなく巨大な樹木。樹木だったもの。


 かつては樹皮色、幹色の姿をしていたのではないか。深緑の葉を茂らせていたのではないか。

 それも今はすっかり抜け落ち、枯れ枝のように心もとない。

 瑞々しさなどとは遠く離れて。



 その下で見つけたものは、今までで一番強く、猛々しい色。

 真紅の石と、雪色の石。

 他にも薄汚れた白はあるけれど、美しい雪のような白さは初めて目にした。


 二色の石を、また黒布に包んだ。




 そのまま進むと、また巨大なものが姿を現してきた。


 巨石。

 降り積もる灰を集めここに固めたかのような巨大な岩山。先の大樹だったものにも匹敵するほど。


 登るには大きすぎて避けて進むと、少し風変わりなものを見つけた。

 白と黒が絡み合うような石。

 これも何かの意味があるのだろうか。手にして進む。




 進んでいくと、影に襲われた。

 影と呼ぶくらいしか言いようがない。他に言葉を知らない。


 黒く、ぼんやりと形の定まらないもの。

 手足があるようにも見えたり、ただの塊のようにも見えたりする。



 無数の影。

 襲ってくるそれらを殴り、破り。塵に帰して進んだ。

 何かが襲ってくるのならこの進路が正しいのかもしれない。



 アヴィ、助けて。


 エステノの言葉を思い出す。

 世界をこんな風に枯れ果てさせた元凶は、この影なのだろうか。


 だとしても、どうすれば?

 この影を消せば世界が色を戻し、エステノを助けることができるのか。

 手から零れてしまった大切な何かを取り戻せるのか。


 わからない。私の他に誰もいなくて、世界は何も教えてくれない。

 ただ導かれるように、かすかに残った色のあるものを集めながら歩き続けた。


 私が歩みを止めたら、全てが終わってしまうような気がして。



  ※   ※   ※ 

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