第六幕 075話 痴惧破愚



「一酸化炭素! CO!」



 馬鹿な。

 なぜそんなものを知っている。


 ダァバ以外の誰も知らぬはず。そんな言葉を。

 しかし、偶然ではない。偶然に叫べるわけがない。


 空気袋を投げつけると同時に放たれた言葉。

 ダメ押しのように元素記号まで。

 咄嗟に口を塞いだ。吸い込むわけにはいかない。



 ダァバが使うのは二酸化炭素。

 厳密に、過去の知識にあるそれと同じなのかはわからないが、そういう性質の気体。


 歩くだけで死を振り撒く呪術師。

 畏怖と尊崇の象徴。目に見えぬ死の力。

 ダァバ自身も吸い込めば死ぬ。息を止め周囲に振り撒き、息を継ぐ前には振り払って散らした。



 二酸化炭素は比重が重い。下に溜まりやすい。

 今言った一酸化炭素は比重が空気と近い。

 どちらにしても高濃度のそれを吸い込めば瞬く間に意識が混濁し、死に至る。


 自分が使うから。

 ダァバがそれを使うから、その危険度はよく知っている。実験中の事故で死んだ弟子もいた。


 濁塑滔との混じりものになった今のダァバに、一酸化炭素などの毒性がどう影響するのか。

 わからない。わからないが、試してみるわけにもいかない。

 ここで意識を失ったりすれば命取りになる。



「し――」

「やあぁ!」


 叫んだけれど、その空気袋に本当に詰まっていたとは限らない。

 猛毒の中に口を開けて突っ込んでくるわけがない。考えるまでもなかった。



 驚愕が思考を止めた。

 知っていることが、動きを止めた。


 一酸化炭素などという言葉をこの世界の人間が知っているはずがない。知っていたとして活用する術もないのに。

 自分がそれを手段にしていたから、だからその脅威に判断を誤った。



「僕を騙したんだな!」


 左右から振りかぶった杖を叩き払おうとして、それがダァバを痛めつけたことを思い出す。

 本来なら、ダァバが振り撒く死の呪いを知っている敵は容易に近づけないはずなのに、完全に裏をかかれた。


 払い除けるのをやめ、下がる。

 判断が遅れた。



「終宵の脊梁より、分かて無窮の耀線!」


 杖から伸びた光の筋がダァバの右手を切り裂いた。

 半ばほど。


「くそっ!」


 痛い。

 氷の魔法ではない。力を込めれば弾き返せただろう力だったが、逃げ腰になったのが失敗。



「真白き清廊、九仭くじんの末つ方に、至れ三稜さんりょう鑑玻璃かがはり!」


 金髪の少女が唱えた魔法は、神の世界の果てまで貫く光線の伝承。

 幾筋もの光がダァバの体を貫き、半分斬られた腕から杖を弾き飛ばした。



「しまっ」


「「真白き清廊より、来たれ絶禍の凍嵐!」」


 間髪入れず放たれたのは、ここにきて氷雪の魔法。

 左右から吹き付ける猛烈な吹雪がダァバの体を凍らせる。


 およそ魔法使いとしては最高位になるだろう女が、重ねて唱えた氷雪の魔法。

 その力は、範囲を絞れば世界すら凍り付かせるほどの力。局所的な氷河期のように。



「が、ろぉぉぉっ!」


 このままダァバを氷漬けにしようと言うのか。

 氷に閉ざし、封じてしまおうと。

 吠えた。吠えて抗う。


 ぶつかってくる冷気に対して、ダァバの中に渦巻くエネルギーの奔流で凍らせまいと押し返す。

 エネルギーは熱になる。小娘どもの力などでダァバの中の無限の力が押し負けるわけがない。



「色無しの」


 身動きが取れなかった。

 さらにもうひとつ声が重なるのを聞いても。


「真なる清廊より――」


 遅れて追って来たトワが唱える。

 世界の終わり。時すら失う絶無。色も熱もない果てを謳い上げた。



ついとばりを、閉ざせ無明の万零」


「ぶぅうぅぅぞぉぉぁぁぁっ!」


 まともに言葉にならない。

 ただ唸る。うめき声を張り上げて対抗する。

 杖があれば……あっても、これでは詠唱も出来ない。



「るぉぁぁぐぅぅぅぅうぅ!」

「く、まだ――っ!」



 押し合う。

 せめぎ合う。


 ダァバの中の力は無限。

 こんな娘が何匹集まったところで、無限の力に対抗できるわけがない。

 取り込んだ濁塑滔の力はこんなものではない。大陸全てを飲み込んで余りあるほどのはず。

 神の力だ。



「この、僕ぼぉぉぉぉ!」



 倒せるわけがない。

 そうだ、たとえこの体が形を失っても死なない。

 無限の力がある限り。



「――?」



 漏れていく。

 ダァバの中の力が漏れ出す。溢れ出す。

 首の、小さな傷痕から。短剣使いが残した最後の悪足掻きの。


 凍り付いた端から、一体化しきれていなかった力が漏れ出す。逃げていくように。

 少しずつだが抜けていく。どこかに。


「どうし……?」


 百歩譲って、漏れることがあるとしても逃げ出すわけがない。

 まるで注射器で吸い取られるように抜け落ちていくはずが。



「……まだ、何かいる」


 小さな、小さな。

 取るに足らないものが。


 荒れ地の中にいた。



 拳ほどの小さな黒い塊。粘液。

 濁塑滔だくそとうの赤子。


 大地にしがみつくように震えながら、凍ったダァバの細胞から分離していく力を吸い上げている。

 一体化しきれなかった濁塑滔の成分が、極々低温下で分離したから。



「こんな……だからって、こんなちっぽけな魔物程度が……!?」


 いくら同じ性質の魔物だと言っても、拳程度の小さな存在。

 そんなことをしようとすれば、逆にその濁塑滔の方がより強大な存在であるダァバに吸い込まれるのが道理だ。

 存在の重さが違いすぎる。



「!」



 大地にしがみついているのではない。

 命のエネルギーを感じ取れるダァバだからわかった。気付いた。

 その荒れ地の下には、数百の魔石――人間の命が埋まっている。埋められている。


 ここは墓地だったのか。だとしてもなぜ人間の魔石が形を作ってここに埋まっているのか。理解できない。



「こんな、バカなことが――ぐっ!」


 身動きが取れないところに、さらに突き刺さった。

 投げられた短剣がダァバの腹に。


 先ほどダァバの首に傷をつけた短剣。

 突き刺さってみて理解する。これもまた女神の遺物。割れた爪の薬指メディキナリス



「おまえだけは……」


 トワに続けて、トワを追ってきた男。

 清廊族の男。既にその顔も死相のくせに、ダァバに傷をつけた短剣を拾って追ってきた。

 どこにそれだけの執念があったのか。



「ぐ、ぞぉぉ!」


 さらに漏れる。溢れる。

 傷口から溢れた力と、抗おうとする力が渦を巻く。

 ぶつかる氷雪の力と相まって、空にまで渦を――



「ルゥナよ!」

「はい!」



 絶禍の嵐が途絶えた。

 トワだけの力なら、押し返すこともできる。

 すぐさま。



「「遥か深き霊廟の奥殿より、劈轟へきごうせよ砕禍の雷哮」」


「なあ?」



 すぐさま、も何もなかった。

 渦巻いた天と震える大地から、世界の怒りのごとき雷光が立ち上がり。

 つんざいた。


 雷の咆哮。



「ぶぁぁぁっっ!」



 氷漬けにしようなどという甘い考えではなかった。

 足を止めながら、大地と大気がストレスに満ちて激烈な電位差を孕むのを待っていたのか。

 そんな気象の知識すらなく、ただ偶然だったのかもしれないが。


 無知な蛮族が、ただ感覚と言い伝えなどというものを頼りに。

 ダァバを、この世界の新たな神となるべきダァバを討つなどと。


 有り得ない。

 そんなことはあってはならない。

 そうだ、神のごとき力だとしても、ダァバには生来から神に並ぶだけの力がある。

 負けない。負けるはずがない。


「ぐのおおぉぉぉ!」


 押し返そうと。

 打ち破ろうと。

 無知な者どもに、真なる神の知恵と力を持って天罰を下さなければ。


 雷の力の利用法なら、ダァバの方が詳しいはず。

 もっと多くのことを知っている。たとえば。



「ち、ちょう……」


 極々低温下では、物質の電気抵抗は極めて低くなり。


「ちょうでん、ど――」


 今のダァバは。

 そうだった。



 本当なら、いくらトワ達の魔法が優れていたとしても、絶対零度近い温度であるはずはなかった。

 どれだけ重ねたところで、この開けた空間に絶対零度を生じさせるなど不可能。



 だけれど。

 思い至ってしまった。


 ダァバの知識が、結び付けてしまった。


 かつてある濁塑滔が、勇者の一撃で魔物が滅びるのは必然と受け入れてしまったように。

 極めて低温に冷えた自分の体が、この雷光に抗うことは原理的に出来ない、と。


 出来ないと思うことで出来なくなる。

 死ぬと思うことで死ぬ。

 それもまた世界の真理の一つ。




 大地から天を貫いた雷光は、清廊族に産まれた愚かな男の細胞の一片も残さず貫き、焼き尽くした。



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