第六幕 004話 記憶の逆道



「やっぱり私……」

「だめです」


 立ち止り、振り返る。

 もう何日も歩いた。とうに見えない町を。


 今さら戻れない。戻ったところで何ができるわけでもない。

 邪魔になるか、そうでなければ。ただ死ぬだけ。


 ただ死ぬだけ。

 それでいい。

 他に出来ることがないのなら、同じ場所で死にたい。


 それしか報いることが出来ない、無力なスーリリャのせめてもの――



「だめです」


 許されない。

 そういう自分だって、途中休憩の時には何度も振り返っていたのに。


「隊長の……最後の命令ですから」

「……」

「……僕は、あの人の副官なんですよ」


 スーリリャを連れて逃げるよう命じられ、抗議しなかったわけがない。

 仲間が皆、死地と知りながらあの町に残ったのに、難民に紛れて逃げ出せなんて。



 侮り。

 騎士団の一員として戦うことも許されずに。


「スーリリャ、あなたを生かすことが僕の任務です」

「……それを生きていると言えますか?」

「……知りませんよ」


 ツァリセはスーリリャから顔を逸らして小さく答えた。

 意地の悪い質問だったと思う。


「僕に、そんなのわかるわけないじゃないですか」

「……すみません」

「……」



 ツァリセだって本意ではない。

 どうしようもなく追い詰められた状況で、ビムベルクが強権を掲げて下した命令。


 エトセンの仲間たちが皆、チューザの仇として傲岸な菫獅子騎士団との決戦に向

かう姿を目にしていながら。

 たかだかスーリリャだけの為に、卑劣な臆病者のように逃げ延びる。


「死んじゃわなけりゃ、生きてるってことでしょ」

「……はい」


 その顔には反対の表情が浮かんでいるのだろう。

 深く、悔しさと寂しさを刻み込んで。



 スーリリャは知っている。

 命があることと、生きるという意味は少し違うのだと。


 息をして、物を食べているだけで。

 己を押し殺してただ生きる。

 かつて奴隷として暮らしていた日々はそうだった。


 去年、この先で出会った清廊族の少女に言われた。そんな経験をしてから物を言えと。

 知らないわけではない。スーリリャだって何も知らないわけではない。

 人間に囚われ、奴隷として自由も尊厳もない時期を過ごしていた頃に思い知った。


 そんな過去があるから知り得たこともある。全ての人間が憎むべき相手ではないのだと。

 絶望の先に見つけた光。希望。


 生きると言うのは、先の希望に向かうこと。

 絶望の未来しかないまま生かされるのを、生きると呼ぶのは違う。


 生きていればこそ、今は見えない希望を見つけられるかもしれない。

 そんなこともある。



 でも。

 光は失った。


 スーリリャのたったひとつの希望で、自分の命に光を差してくれたビムベルクは、もう帰らない。

 まだ町で戦っているのかもしれない。

 けれど、勝つことはないと言っていた。


 戦って死ぬのが己の責任だと。エトセンの英雄として、団長代行として。

 不器用な男。馬鹿な戦士。

 そんな男だから愛した。心の底から。



 愛した男からの最後の頼み。

 生きてくれと。

 いつか誰かに、こんなバカな男がいたのだと語ってくれ。彼の生き様を託された。


 スーリリャの寿命はもちろん長い。

 いつか誰かに、ビムベルクのことを語ることもあるかもしれない。

 それがまた別の主人となった人間なのかもしれないし、そうではないのかも。



 ビムベルクのように、清廊族を人と同じように扱い尊重してくれる人間は、もう現れないだろう。

 誰もが清廊族を奴隷として、家畜のように扱う。


 仮にツァリセがビムベルクと同じように接するようにしたとしても、ツァリセ本人はビムベルクほどの力はない。

 大勢の人間の意思に抗って黙らせるようなことはできないのだ。


 せいぜいが、ツァリセが生きている間は無体な扱いをさせないくらい。

 それとて望外の待遇。

 他の清廊族が当然のように押し付けられている苦渋に比べれば。



 ツァリセだっていつまでもスーリリャに付き合う必要はない。

 今はビムベルクの命令でそうしているにしろ、エトセン騎士団の一員ではなくなるツァリセには、彼自身の道がある。


 スーリリャがツァリセと共にいるのなら、彼に仕える形になる。

 それが自然な形で、ツァリセにも迷惑をかけない。


 そうは言ってもツァリセは優しい。

 口では色々言っても、ビムベルクを尊敬していたことも知っている。

 いつまでも、こんな関係でいるような気がした。



 スーリリャは感謝すべきなのだろう。

 ビムベルクに出会えた幸福を。

 ツァリセのような人間に庇護されることを。


 誰に感謝すればいいのか。

 清廊族の守り神たる魔神に?

 ならどうして、スーリリャは物心ついてからずっと過酷で悲惨な日々を過ごしたのか。

 感謝はただビムベルクに。それだけ。




「もう少しでレカンの町です」

「はい」


 思えば去年の春先にも通った道。

 ビムベルクも一緒に歩いた。


 今は、エトセンの町から逃げてきた他の難民の姿もある。

 誰も来ない山の方角に逃げた者もいたし、南の港に向かった人々も。

 隣町のレカンに向かう難民の中、空を見上げた。



 秋の空は、高く涼し気で。

 スーリリャの胸の空しさを表すように、静かに寂しい。


「明日には雨がきそうです」

「……はい」


 南の空にうっすらと雲が見えてくる。

 見える雲は雨雲ではなさそうだが、その向こうからもっと分厚い雲が流れてくるのだろう。



「雨、ですか」

「……」


 去年も、そうだった。

 レカンの町周辺で清廊族の集団を追う時に雨が降り、川の水かさが増していたのを思い出す。


 なんでもない記憶。

 だけど、そこにビムベルクの姿があり、ビムベルクの言葉が耳の奥に響けば。

 ただの記憶が思い出に代わり、スーリリャの赤い瞳から涙を溢れさせた。



「……もう少し休んだら行きましょう」


 スーリリャの方を見ないまま言うツァリセ。

 わかっている。

 彼だって泣きたい気分なのだと。


「……はい」


 だから、もう少しだけ。

 エトセンの方を見やり、もう少しだけ休むことにした。



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