第四幕 073話 一番の主と二番の下僕



「水です」

「……」

「あの……」


 恐る恐る声を掛けると、暗がりに向けていた目を瞬かせて顔を上げる。


「ありがとう」


 聞こえていたのだろうが、自分に向けられた声だと認識していなかった。



「……イリアさんのこと、ですか」

「ありがとう、クロエ」


 汲んできた水を受け取り喉を鳴らす。


 並べば、小柄な彼女の頭はクロエの目線よりも下。

 小さく儚い。

 年齢だって、クロエより若いのだと思う。


 クロエの命よりも大切な主。

 今は、クロエだけが彼女の下僕。

 こんな状況でも幸せに思う。



「貴女も、付き合わなくても構いませんのに」

「それは言わない約束です。マルセナ様」


 マルセナから返された水筒に口をつけて、クロエも満たす。潤す。


「死ぬまでマルセナ様のお傍に。それが私への褒美と」

「そうでしたわね」



 エトセンから出て、街道からも離れた小さな森の中。

 小川のほとり。

 愛しい主とただ二人、束の間の休息の時間を得た。


 夏は過ぎ、秋に差し掛かる。

 夜の森は涼しく、逆にこのままではマルセナが冷えるかもしれない。

 小川の水を汲んでいる間、マルセナは暗い森を見ながら何を考えていたのか。



 呪術師ガヌーザの腕は知っていたつもりだが、やはり見事なものだ。

 完璧な仕事をする。


 薄陰うすかげ異貌いぼう、とか呼んでいた。

 顔形を変えるというものではなく、他者からの興味を極端に低くする呪術。


 どうでもいい存在。

 雑草のような。石ころのような。関心を抱くに値しないものと認識させてくれた。


 エトセンの兵士や市民、冒険者など。

 マルセナとクロエの顔を見れば、即座に興味を失う。

 本来ならマルセナの美しい容姿を目にしたなら、その魅力の虜となり離れないだろうに。



 マルセナがぞんざいに扱われることを不満に思う一方で、良いこともあった。


 クロエとマルセナも、お互いの認識が出来ないかもしれない。

 もちろんクロエはマルセナを見失ったり見違えたりするはずはないけれど、ガヌーザの呪術とクロエの愛をここで競うのも怖い。


 ずっと手をつないでいた。

 エトセンに近付きダロスを放してから。街道を歩く間、ほとんどの時間マルセナと繋がっていた。


 これまでの人生で最高の時間だ。

 愛するマルセナと手を繋いでの旅路。それがたとえ死に近くとも。



 途中、二人組の冒険者らしい男に声を掛けられた時は驚いた。

 顔を見ればすぐに興味を失ったが、後ろ姿では魅惑的に見えたらしい。


 エトセンに入る前に騒ぎになっては困る。

 その場は問題なく、町に入っても問題はなかった。



 問題は、目的の家がわからなかったこと。

 騎士団長の住まいはどこかと調べても、おおよその場所しかわからず。


 その辺りにはボルド・ガドランに縁の深い者もいるだろうと、焼けば出てくるかとマルセナが魔法を使った。



 街中での爆炎魔法に、当然エトセン騎士団が飛び出してくるはず。

 真っ先に飛び出してきたのは、目当てのボルド・ガドラン。願ってもない。


 だというのに、彼は勇者シフィークに連れられて逃げ出してしまった。


 唖然とした。

 全く想定しなかった行動に何も出来ず見送ってしまい、追ってみたものの見失った。

 町を飛び出し、街道を外れて行った。だからクロエたちもここにいるわけで。



 正規の騎士団長が、町を襲撃されて真っ先に逃げ出す。

 シフィークや他の戦力を予想していなかったわけではないが、突飛な行動にこちらも混乱した。


 あのままエトセンに残っていれば他の騎士団員を殺すことは出来たかもしれないが。

 ボルドを追って町を出たから、異貌の呪術が切れる前にエトセンを出られたとも言える。


 見失い、森を行くうちに日も暮れて。小川を見つけ、呪術薬を流す為に顔を洗ったりついでに体を拭いたりして。

 そのうちにマルセナがぼうっと意識を遠くに向けていた。




 マルセナは、クロエの目から見て、自棄になっているようにも見えた。

 なぜだか急に、周囲の者を切り離して自分だけで目的を叶えようと変わってしまった。


 エトセン騎士団を潰す。

 エトセンの市民や何かは二の次らしく、騎士団関係者さえ殺せればいいようだ。

 騎士団長ボルド・ガドラン。その関係者や当人を殺して、追ってくるだろう騎士を殺す。


 前のように、魔物や影陋族の奴隷を集めてエトセンを襲うという方法でもいいのではないかと。

 クロエはそう思うが、マルセナがそれを望まないのならそれに従うまで。



 本当は察している。

 イリアだけは死なせたくない。だから全て切り捨て自分だけで向かおうとしたのだと。




「わたくしが、約束を破ってしまいましたわ」

「え? ああ」


 先ほど、クロエに付き合わなくていいと言ったことか。


「気になさらず」

「いいえ、クロエ。わたくしが悪いのですから」


 暗い中でも真っ直ぐにクロエを見上げるマルセナ。


「お詫びに、貴女の望むようにさせて下さい」

「……かなり涼しいですから、触れさせていただいても?」

「クロエがされたいのなら」


 小さな体を包み込む。

 マルセナの温もりを、クロエの温もりで包む。



「……ノエミが死にました」


 ぽつりと、マルセナが名を口にした。


「イリアの為に、身を投げ出して」

「彼女は……イリアさんのことを愛していたのでしょう。もちろんマルセナ様のこともですが」

「いいのです」


 クロエの言葉を遮り、胸元で小さく首を振る。


「ノエミがイリアを好いているのは知っていましたわ」

「……」

「イリアだって、わたくしがいなければ――」

「マルセナ様、それはいけません」


 今度はクロエが遮り、窘めた。

 主の言葉でも。



「その言い方はイリアさんを傷つけます。いけません」


 イリアを傷つける言葉は、きっとマルセナ自身を傷つける。


 クロエはイリアを好きではない。恋敵であり邪魔者だと思う。

 けれどマルセナが彼女を大切に思っている事実を捻じ曲げるつもりはない。

 憎く妬ましくても、マルセナの気持ちを踏み躙ったりはしない。



「……貴女は優しいですわね、クロエ」

「マルセナ様にだけは」


 イリアに対する優しさではなくて、マルセナの為だから。



「……色々と思い出しました」


 クロエの胸の中で呟く。


「崩れる篝火と、身を投げ出すノエミ。それにエトセンの騎士」

「……」


 過去の記憶がなかったのだろうか。


 マルセナの過去をクロエはほとんど知らない。

 寝台で睦んだ合間に、少し聞いた程度。


 勇者シフィークやイリアと共に冒険者をやっていたと。

 イリア達に出会う前から天才魔法使いと呼ばれるほどだったとか。その程度。



 生まれる前のことだとかで、アン・ボウダという女性がエトセン騎士団に殺されたという話は聞いたが。

 それがどうマルセナに繋がるのか、クロエにはわからない。

 彼女の魂が時を越えてマルセナに宿った、とか?



「マルセナ様は、イリアさんを愛していらっしゃるのですね」


 わからないこともあれば、わかることもある。


「本当に、心から」

「わたくしは……わかりませんわ」


 自分の胸の内がわからないと言う。


「イリアを捨てたのに、どうしてそう思われますの?」

「守りたかったんですよ。マルセナ様はイリアさんを」


 悔しいけれど、マルセナは心の底からイリアを愛している。

 ノエミが死んだことを受けて、次はイリアが死ぬことを怖れた。だから遠ざけた。


 争いごとの絶えないこんな場所ではなく、平和なロッザロンドで暮らせと。

 そう願ったことを愛情ではないなどと思わない。


 本当なら一番近くにいてほしいイリアと別れを選び、自身は別の目的に向かう。

 それほどまでに果たさねばならないのだろうか。エトセン騎士団の打倒というのは。



「わたくしは……人の愛し方が、よくわかりませんもの」

「誰も、そんなのちゃんとわかっていません」


 一番ではない。

 クロエはマルセナの一番ではない。

 だけど、二番目でも何でも、今はクロエだけがマルセナの傍にいる。

 マルセナの温もりを感じ、彼女に温もりを伝えているのはクロエだけ。


 愛し方も、愛され方も。

 全部が思い通りにならないし、何が正しいのかもわからない。



「マルセナ様」


 愛する女神の心に空いた隙間に、自分を捻じ込むのは悪いことかもしれないけれど。


「私なりの愛し方でよければ、お伝えしても?」

「……クロエがそうされたいのなら」


 女神は許してくれた。


「わたくしに教えてくださる、かしら」


 許されたからには遠慮はしない。



「ただの女として、でも?」

「クロエが、そうされたいのでしたら」


 マルセナ自身、寂しかったのだと思う。イリアと別れたことで。


 理由はそうでも、それも飲み込む。許しをもらったのだから精一杯伝えたい。

 マルセナという少女を、クロエという女がどれだけ容赦のない愛欲で見ているのか。


 邪魔をする者もなく、ただ女と女の夜を。



  ※   ※   ※ 



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