第三幕 083話 かけがえのない_1



 目覚めると、すぐ近くに自分を見つめる瞳がある。

 そんな視線には慣れていた。


 最近はずっとそうだったのだから。

 これからも、ずっとそうなのだから。




「……」


 見覚えのない建物。屋外ではない。

 何をしていたのだったか考えようとして、ひどい頭痛と眩暈を覚える。


 気分が悪い。

 最悪だ。

 病気にでもなったのだろうか。ここ最近はそんなこともなかったのに。


 ここ最近……牧場を出て、アヴィから恩寵を授かってからというもの病気とは無縁だった。



 牧場を出て、逃げて、戦って。

 たった一年前のことなのに、これまで生きてきた中で最も濃い時間だった。


 自分の為に戦う。仲間の為に生きる。

 いまだ望まぬ生き方に涙すら流せぬ同胞を救いだす戦い。


 牧場の一つは解放して、自分たちはそこで救われた。

 けれどまだ牧場はたくさんある。


 人間どもの住む町――ゼッテスの本宅があるレカンの町には、自分たちの血縁者も囚われているはずだ。

 この大陸から人間どもを一掃する。果ては、別大陸へと売られてしまった同胞だって助けられるかもしれない。



 出来るのだ。ルゥナがそう言って、アヴィがそう言った。

 頼れる仲間たちも増えて、自分だって強くなった。

 強くなった。


 この力があれば出来る。

 自由で、幸せを得る為の生き方が出来る。

 もう首輪などない。縛られることなく生きることが。



 幸せを。

 そうだ。幸せなのだ。

 今の自分は幸せなのだと知った。


 愛すべき者を愛して、愛する者に愛されて。

 そんな幸せは普通に生きていたって得られたかどうかわからない。


 幸せだ。ニーレは、幸せだ。


 奴隷だった頃は自由に誰かを愛するなど考えたこともなかった。

 今は違う。

 自分の意思で、愛する者を求めることが出来る。



「……」


 重い体を動かして手を伸ばす。

 視線を感じる先。そこにある幸せを掴もうと。



「……」


 指先が触れた。

 慣れぬ感触。

 肌が違う。柔らかさが違う。温もりが違う。



 これじゃない。


 これじゃない。



 間違えるはずがない。何より大切な者と別のものくらい。


 どこにいったのか。

 いつも眠る自分の――ニーレの傍にあったはずなのに。



 宙を泳いだ手を、再びその別のものが掴んだ。

 両手で包み込むように。


 邪魔だ。

 邪魔をするな。


 振り払いたいけれど、力が足りない。

 体が重く、視界もぼんやりと定まらず。


 探さなければいけないのに。

 掴まなければいけないのに。

 ニーレの大切なユウラの手を。



 なのにその手は、ユウラの手ではないくせに、ニーレの手を離そうとしない。

 ユウラの手ではないくせに。


 だのに、どうしてか。どうしようもないほど感じる。

 ニーレを心から労わり、慈しみ。形は違うが愛情のような優しさが込められているのを。



「あ……あぁ……」


 涙が溢れ出した。

 とめどなく。


 この手が、あの幸せな温もりを掴むことはもうないのだと。

 逃げられない現実を知る。

 全身が震えた。



「うあ……ああぁ……うっ、ううぅぅぅ……っ」


 わななき、咽び泣く。


「ああぁぁぁっ! う、うぁぁ……ううああぁぁ……」


 言葉にならないニーレの泣き声を、ずっと、ずっと。

 手を握るルゥナは、ただ静かに聞き続けていた。



  ※   ※   ※ 

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