第三幕 048話 憤懣の湖



 白じむ空の方角から聞こえてくる喚声が耳に届く。

 予定通り皆が攻め寄せたのだろう。


 その首尾がどうなるのか不安に思う一方で、安堵する気持ちもある。自分が任された仕事はとりあえず果たせたようだ。



 メメトハは小さな胸を撫でおろし、また気を引き締める。


 視界の悪い雨の最中、ごく少数で動く必要があった。

 一行の中で最も魔法使いとしての資質、力量が高いメメトハにしか頼めないと。

 そう言われてしまえば断ることも出来ない。


 そのせいで今仲間たちは、満足に魔法の支援を受けられずに敵と抗戦しているはず。

 すぐに援護に向かいたい。けれど、この後の作戦もまた違う。



 今からメメトハは――


「疲れてるんじゃない?」


 揺れる湖面を見つめるメメトハに、横から声が掛けられた。


「いや、大丈夫じゃユウラ。ニーレは平気か?」

「私は問題ない」



 サジュの北に広がる湖ヌカサジュ。

 凍らぬ湖と呼ばれる。冬でも凍らない不思議な湖で、サジュの町の水源として町の者から大切に崇められている。


 なぜ凍らないのか。カナンラダ大陸北部の気候は厳しく、冬になれば大地さえ凍り付くほど。

 ヌカサジュから西に向けて流れる川は凍るのに。


 ニアミカルム山脈から流れてくる支流を集めた湖から、西に向けて流れていく川。

 それは凍るのだ。

 今、そうしているように。



「思ったより深くなかった」

「そうじゃな」


 完全にではないが、かなり隙間を少なく凍り付かせることが出来た。

 思ったより早く堰き止められたので、休息は十分とれている。疲労はほとんど残っていない。


 ニーレの氷弓皎冽は、込めた力により撃つ矢の太さなどを変化させられる。それを川底に向けて何本も打ち込んだ。

 浮力を受けても深く川底に食い込んだのはニーレの技量あってのことか。


 溜腑峠で泥の下に氷を張った際、氷が浮かばぬように底の地面に繋ぎとめるのに苦労したとルゥナが言っていた。


 突き立った矢を支柱にして、メメトハが何度も氷雪魔法を重ねて堰き止めた。

 湖の水位が上がり周囲は水浸しだ。溢れた水が氷の堰を避けてまた川に流れ込んでいるけれど。


 町にも浸水しているはず。足元を水浸しにする程度でも。



 ルゥナに任された最初の仕事は済ませた。

 次は、戦場ではない。ニーレとユウラと共に、出来るだけ隠密に町の中に入らなければ。


 東で戦いが始まったのなら、多少なり敵の注意は東門に向かうだろう。

 小さな出入口全てを見張っていることはないはず。



「頃合いじゃ、サジュに……?」


 揺れる湖面を見ながら休憩する時間は終わりだと、そう思ったのだが。

 ユウラの目が、どこか焦点が合っていない。

 同じように湖を見ていたはずが、その瞳が何を映しているのか。



「なにか……来るよ」


 ニーレは既に弓を構えていた。

 メメトハも杖を握り直し、揺れる湖面を注視する。


 いや、揺れるという表現では足りない。波立つ、泡立つように溢れかえるように水面が騒ぎ出し、猛然と溢れ出した。



「な……」

「下がれ、ユウラ!」


 水飛沫を受けながら、メメトハも大きく飛びずさる。

 湖から巨大な質量が浮かび上がってきた。正体不明の。



 湖面を盛り上げ、ぬらりとうねる。

 青白く見えたのは水の加減のせいか。とてつもなく大きい。


 まさかこれが話に聞いた空飛ぶ巨大な魔物――いや、それは黒いと聞いている。


 ぐおんと、耳の奥を鈍器で殴るような低い音が響いた。

 低い音なのか、その後から甲高い砕けるような音も響く。

 川を堰き止めていた氷の壁が粉々に砕かれ、そこから一気に水が流れていった。


「堰が!」

「構わん、ユウラ! それより気をつけよ!」


 水のことよりも、今目の前に現れるこの正体不明の魔物に注意を向ける。


 間違いなく生き物だ。

 とてつもなく大きいと感じたのは、間違いではないのだが、やや誤認していた。

 大きさよりも、とにかく長さが長い。


 白くぬめるような体が差し始めた朝日に照らされた、湖面に何か所か浮かんだその背中を視認する。


 とても長く、鱗のない白っぽい体表の魔物。

 太い紐のような形状で、蛇の魔物かと思ったが鱗はない。



流白澄ながしらす……か」


 ヌカサジュには、鱗のない長細い魚がいる。

 流白澄と呼ばれるそれは、泥魚から泥臭さを除いたような身の魚で食用とされているのだとか。


 それにしてもこんな大きさは有り得ない。

 聞いている流白澄は、せいぜいが男の腕の長さを越えるほど。太さは腕の半分もないとか。

 これはその何十倍……いや比較することさえ難しい。少なくともメメトハ程度は軽く丸呑みできそうな太さがあった。



「まさかこれは……ヌカサジュ湖の主か!」


 ――愚か者が。


 響いた。

 声というには違和感を覚える音が、水中から空気を震わせる。

 肺で呼吸をしている生き物でないのだから声の伝え方も違うだろう。そもそも頭はいまだ水の中だ。


 ――ヌカサジュに主も下僕もない。

 

 メメトハの言った主という言葉をまず否定された。



 ――ただ流れる命に敬意を持つべきを、愚かなり清廊族の娘。


 紛れもない怒気を込めて大気を震わせる魔物。


 向こうは違うと言うが、清廊族に伝わる逸話ではそのようにある。

 ヌカサジュには、古くから深くに住む巨大な白い魔物がいると。


 それを湖の主と呼ぶのは清廊族側の勝手で、魔物の方にはただ自然の中のひとつという自意識しかないのか。



「ま、待ってくだされヌカサジュの……偉大な者よ」


 敬意を欠く行い。

 それはメメトハが川を堰き止めたことを言っているのだろう。

 自然の流れを強引に捻じ曲げ、妨げた。それに対しての怒り。


 知らなかったのだ。

 この伝説の魔物は二百年以上姿を確認されたことがない。

 名すら知られぬ古く強大な魔物。


 サジュの住民はこの湖でずっと過ごしてきたのに、誰も見たという者はいなかった。本当にごく一部の古老が、かつてそういう魔物がいたと嘯く程度。



 ――私に対してではない。ヌカサジュの命に対しての敬意を失った罪は、そなたらの命で償え。


 知らなかったなど言い訳にもならない。

 数百年に亘り、誰もこの湖の命の営みを滞らせるようなことはしてこなかった。

 この魔物に対してではなく、自然に対する侮辱。それを断罪すると。



「妾じゃ!」


 ニーレとユウラの前に立ち、大きく宣言する。


「メメトハ!?」

「黙れニーレ! そなたはユウラを守れ! この川を凍らせたのは妾じゃ。クジャの氷巫女、メメトハがしたことぞ!」



 びゅっと音だけが聞こえた。

 見えない。音さえ、衝撃より遅れて。

 メメトハの頬に一筋の傷が残る。


 見えなかったが、おそらく凄まじい密度の水流をかすらせたのだろう。

 直前の動きも詠唱もなく、メメトハでさえ身動きできないほどの速度で。

 格が違う。あまりにも。


 ――氷巫女とはいえ、そなたの命一つで済ませることはない。


 薄い水の円盤のようなものが湖面から空中に浮かび上がる。

 十を超え、数十。



「人間との戦い故、この川を堰き止めたのじゃ! それを罪と言われるのであらば妾が罰を受けよう」


 相手は魔物だ。考え方など違って当たり前で、おそらくこの魔物にとって最優先なのはヌカサジュの自然の流れ。


 ならば事は既に手を出してしまった後。

 取り戻すことは出来ず、この怒りも収まることはない。

 だとすれば、今のメメトハに出来ることは限られている。


 ――人間とそなたらの戦いなど、ヌカサジュには何の意味も持たぬ。


 その通りだ。



「ニーレ……すまぬ、皆へ伝えてくれ」

「……」


 迷う気配だけは感じられた。


 よかった。この場にユウラがいてくれて。

 ユウラがいれば、ニーレは彼女の安全を優先するだろう。

 そうでなければ自らが盾となろうとしたかもしれない。責任感の強い性分なのは知っている。


「湖への不敬、心より詫びよう。他の者はこのことを別の者に伝えるゆえ、この場はどうか妾の命で容赦を賜りたい」

「メメト、は……」


 選択肢がない。

 魔物がこちらの都合など聞く道理もなく、戦うにはあまりに力が違いすぎる。

 逃げることも適わぬだろう。


 考えようによっては良かったとも言えるか。

 言葉が通じて理性のある魔物だ。理屈さえ通り湖の尊厳を守ることになるのなら、聞き入れてもらえるはず。



 ――ヌカサジュは貴様らの勝手にしてよいものではない。その命を持って贖え。


 白い体が動くと、大きな頭が水面から顔を出した。

 顔なのかどうなのか、よくわからない。中心に丸い穴があり、渦巻くような繊維質のものがその穴を塞いでいる。

 目があるのかないのか、少なくともメメトハにはわからなかった。



 ――人間どもといい清廊族といい、貴様らの愚かしさは極まる。死せよ。


 怒気が膨れ上がった。

 湖面から浮いてきた水の円盤が、空気を切り裂くような音を立てて回転する。


(ああ、これは……)


 どうにか怒りを鎮めてもらえないかと、わずかばかりの期待もしていたのだけれど。


(助からぬ、な)


 既にこの魔物の怒りが冷めぬものとわかった。

 数百年の静けさを破りこうして姿を現したのだ。その時点でただで済む事態ではなかったのだ。



 絶対の死を目にする。

 怖さは、もうなかった。

 自分の命一つでこの魔物を鎮められるのなら、それでいい。

 ただ悔むことがあるのなら。



 ――ヌカサジュの怒りを知れ。



「すまぬ、ルゥナ」


 もう仲間の力になれないのだと。

 それだけが、メメトハの悔恨だった。



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