第三幕 019話 死に沈む沼_1



 轟音が響いた。


 溜腑峠の全てを震わすような激震がかなり離れた位置からニーレ達のいる場所まで伝わり、大気と泥土が怯えるように揺れる。

 地震、なのだろうか。



 何かの力で地域一体が揺れるほどのことは、どれほどの魔法使いでも出来まい。

 空にいる複数の飛竜騎士どもも、この振動の正体に覚えがないらしく、周囲を警戒するように旋回していた。


 こちらの罠と思ったのかもしれない。

 わずかでも時間を作れるのは有難いが、ここからどうすればいいのか。



 仕留め損ねた。

 ルゥナや皆で考えて準備して、それぞれの役割を最大限に努めたはずなのに。倒すべき敵はいまだ健在で、空にある。

 敵の最大戦力ジスランという男と、その部下。部下それぞれも相当な猛者に違いない。


 こちらの罠にかかったジスランを救うために身を投げ出した二騎は倒せたものの、状況は芳しくない。

 本来なら、突出した強さの英雄を仕留めた上で、他の連中を相手にしたかったのに。

 単騎で飛び出してくれて、こちらの思惑通りに必殺の間合いに飛び込んだところを。悔やまれる。


 人間どもとて必死なのだ。

 戦いに臨み、死を恐れず戦う猛者。


 ニーレたちがアヴィを頼みとするように、彼らにとってはジスランが心の拠り所で、その為に戦うことに迷いはない。

 そういう集団と戦うのは初めてのことだ。




「……貴様らの仕掛け、ではないか」


 さすがにジスランも警戒していた。

 先ほど、あと一手というところまで迫られた事実がある。溜腑峠を抜けた激震をまた何かの罠かと疑い、違うと確信したらしい。


 こちらも今の振動には疑念があった。ニーレの方も敵の仕掛けを疑ったくらい。

 何があったのか。

 砦に向かったミアデたちや、砦の前で伏せていたルゥナ達は無事だろうか。


 空を飛ぶ敵はここまで誘導したが、他にも敵は多いはず。こういう敵に対して有効な手段のない多くの戦士は砦に向かってもらったのだが。



「……そこだな、歌い手」

「むぅ」


 ユウラの位置が悟られる。

 隠れていたのだが、飛竜の足に縄を掛けたりしたので見つかってしまった。


 ユウラが使う歌声の魔法は、皆にある程度の感覚の共有をさせてくれた。

 こういう見通しの悪い場所で、他の仲間が認識している敵の位置を共有できる。有用な魔法だ。

 それもこの状況ではもはや。



「ユウラ、下がって]


 アヴィが間に立つ。

 直接の戦闘能力ではユウラは決して高くない。あの飛竜騎士どもの攻撃を受けきれないだろう。


 ジスランを始めとした飛竜騎士が、その弱点を見逃すはずはない。

 力に劣る魔法使いと、それを庇うこちらの最強の戦士。

 そこに目を奪われたのが、彼らの命運を分けた。




「ボオオオオオォォォォ!」



 泥が、飲み込んだ。


 空を飛ぶ飛竜騎士どもがアヴィとユウラの方を見た時に。

 彼らはその上空のウヤルカから警戒を外していなかったし、脇にいたニーレの弓のことも意識から外していなかった。


 ただ、ニーレたちがいなかった方角。

 沼が深すぎて立ち入らなかった方角には、注意が向けられていなかった。

 上空にいる彼らには、ある程度沼の深さが見えていたのかもしれない。


 底の知れない沼底から、凄まじい勢いで噴出した泥に飲み込まれる。



「なぁっ!?」

「くっ、馬鹿な!」


 驚愕と焦りの言葉を漏らすが、もう遅い。


 その泥の奔流は、この溜腑峠で千年を生きた伝説の魔物殻蝲蛄かららっこが、己の命の最後を賭して放った一撃。

 英雄とその部下どものを飲み込み、そして――



「生きて――いたのか!」

「オマエモシズム」


 天を飲み尽くすような泥の中から、ジスランの声と、別の何かの声が聞こえた。



「エシュメノ!」

「うん!」


 ジスランを中心としていた飛竜騎士は、ジスランを飲み込んだ泥の流れに共に飲み込まれたものと、弾かれたものと。


 弾かれた一騎をエシュメノに任せた。

 近くの岩山を足場に駆け上がると、体勢を崩した飛竜騎士の腹を短槍で貫く。


 上に巻き上げられた飛竜騎士は、ウヤルカの鉤薙刀で人間の体と飛竜の首をそれぞれ両断された。



 ニーレの氷弓皎冽。

 尽きぬ矢があればと言ったニーレに、大長老パニケヤはこれを教えてくれたが、少し違う。

 この氷の矢は、ニーレの魔法だ。


 魔法を得意としないニーレだけれど、この皎冽はニーレの魔法として氷の矢を作り出す。

 だからニーレの体力が尽きると、矢も尽きる。


 矢筒を持ち運んだり矢を作成したりという手間はないので非常に便利ではあるが、無駄に打てるわけではない。

 ニーレ次第で矢の強靱さも変わるし、体力を失えばニーレ自身の集中力も損なわれてしまう。


 だが、利点もある。

 皎冽に力を込めれば、それだけ強い氷の矢が放てるという利点。


 普通の鉄の矢であれば、飛竜の外皮にどこまで傷をつけられたか。

 最後の好機と見たニーレの放った一撃は、ジスランを救おうと泥の中に突撃しようとしていた飛竜騎士を、飛竜ごと貫いた。



「ユウラ、お願い」


 アヴィもまた、泥の中から抜け落ちてきた一騎の飛竜を飛びながら切り捨て、それを蹴って更に飛ぶ。


「わかった!」


 飛竜から落ちた騎士をユウラが手にした手斧で仕留める。

 わずかに微笑んでいたように見えたのは、ニーレの気のせいだろうか。



 知っていたわけではない。

 この沼の底に伝説の魔物が潜んでいたなど。


 いや、噂話として殻蝲蛄という魔物がここに住んでいることは事前に聞いていたが、今ここにいるとは知らなかった。

 人間どもが殺したのだと思っていた。


 溜腑峠に住むはずの魔物は、ニーレたちが来た時にはほとんどいなかった。

 一部の死骸があったので、駆除されたのだろうと。人間が溜腑峠を越える為なら、当然危険な魔物は駆除していったはず。


 最も危険だろうこの殻蝲蛄とて、英雄と呼ばれる人間が複数いたのなら倒されていて不思議はない。

 むしろ生きていることの方が不思議。



 ジスランも口にした。生きていたのか、と。

 倒したはずだった。既に人間の手により倒されていたはずの魔物。

 沼の底深くに沈み、まだ命があるとは思われていなかった。


 清廊族との戦いに集中していた為に、いないはずの魔物には警戒を払わなかった。

 だがその魔物は、単騎であれば英雄と比肩する伝説の魔物。



「死にぞこないが!」


 弾けた。

 ジスランを飲み込んだ泥の奔流が、空高くで弾け散る。

 灰茶色の泥の中から再び姿を現すジスランと、その騎竜。ウイブラと呼んでいた。


 そのウイブラの片翼に鋏を噛ませる、飛竜と変わらぬほどの大きさの魔物。

 おそらく両手にあっただろう鋏は、左側は失われている。

 縦に長い体の、おそらく腰にあたる部分の殻は、大きく砕けていた。



「ザリガニ……」


 空を舞うアヴィの口から洩れた小さな呟きは、地上のニーレの耳に妙にはっきりと届く

 なるほど、川に生息する甲殻類に似ている。

 大きさが飛竜並であることを除けば。


「ワガコノイタミ、シレ」

「化け物の子など!」

「っ‼」


 飛竜ウイブラに食らいつく殻蝲蛄の鼻面を、ジスランの大槍が砕いた。

 それでも殻蝲蛄は離れない。頭を砕かれ、それでも。



 身動きが取れずに空中でもがく飛竜と、両足で鞍に体を固定しながら、再度槍を振り上げるジスラン。

 その右腕を、駆け抜けたアヴィが斬り落とした。


「母の痛みを――」

「きさま」

「知らぬものが!」


 暴れる飛竜の体を足場に、ジスランに迫ったアヴィ。

 魔物との戦いで余裕がなくなっていたとはいえ、英雄の腕を斬り落として。


 だが英雄は普通ではなかった。


 切り離された己の腕を、考える間もなく反対の手で掴む。

 切られた腕には、今も彼の武器である大槍が握られたまま。手放さないのも英雄だからなのか、執念なのか。



「こんな所で私が!」


 死を覚悟しての一撃。

 その前の殻蝲蛄の泥撃もそうだが、英雄級の男の死力を尽くした一撃。

 目の前のアヴィを殺そうと叩きつけられる彼の腕は、音が伝わるよりも数倍速い。



「させんのよ!」

「お前なんかぁ!」

「はぁっ!」


 上からウヤルカが、横からエシュメノが、下からニーレが。

 それぞれの武器でジスランを切り裂き、貫き、撃った。


「が、ぶ……」

「……終わりよ」


 ジスランの左手から、斬り落とされた腕が落ち、握られていた大槍も離れた。


「ぎい……」


 飛竜ウイブラが一声漏らすと、組み付いたままの殻蝲蛄と共に落ちる。


 溜腑峠の泥の中に。

 空駆ける騎士が沈んだ。



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