第三幕 015話 小さな傷を



「……メメトハ、大丈夫ですか?」

「うむ……いや、少し無理じゃな」


 額に浮いている脂汗と、苦し気に笑う表情。


「たった一撃で、情けないものじゃが……」

「いえ、あれは常識の範囲の敵ではありませんでした」


 しばらく戦えそうにない様子のメメトハを見て、どうするべきか考える。



 アヴィたちの下に行きたいが、霧の溜腑峠の中で場所がわからない。

 あちらの方が戦力は整っているはずだが、飛竜騎士というのがどれほどの相手なのか。


 心配になるけれど、今のこの状況で当てもなく探すのは難しい。

 ユウラの歌声が聞こえたらと思って耳を澄ますが、聞こえてこなかった。



「あちらはアヴィ様たちを信じて、砦に向かいましょう」


 額から目元の泥を拭いながらトワが言う。

 こんな汚れ仕事を文句も言わずにやってくれたトワには、本当に感謝するしかない。

 泥と言うのは、汚れだけでなく臭いも酷いのに。上手に出来ましたというように微笑みを浮かべる。


「……そうですね、トワ」


 砦の方は場所も明確で、明らかにここから近い。

 飛んで行った飛竜騎士を追うよりも確実だし、出来ればメメトハを休ませてあげたい。


 アヴィは強い。冬の間にまた一段と強くなっている。

 ルゥナがアヴィを信じなくてどうるすのか、と。



「ミアデたちもいますが、砦にも敵は大勢いるはずです。あちらを片付けましょう」


 出来ることをやるしかない。

 奇襲が成功していれば砦の勝算はかなり高いはずだ。

 この英雄級の敵がいたら逃げるように言っているけれど、少なくとも砦から逃げ出してくる清廊族の戦士はいない。


 どちらもうまく行っていると信じて、場所の分かっている仲間への加勢とメメトハの治療を優先させよう。



「では行きましょう、ルゥナ様」

「ええ。肩を貸します、メメトハ」


 歩くのもつらそうなメメトハに肩を貸してみたが、やはり痛そうだった。出来るだけ負担がかからないように彼女を抱き上げた。


「や、その……」

「ここは足場が悪いですから、砦近くまでは運びます」


 ぬかるんだ沼地を歩くのもつらいだろうと、抱き上げて。

 武器をメメトハの上に預け、小柄なメメトハを抱えて進んだ。



「……幼子ではないのだぞ」


 むう、と口を結ぶメメトハに頷く。


「幼子ではなくても、仲間ですから」


 メメトハの唇がみゅっとすぼまり、ついっと視線を外された。



 置いていくことは出来ない。

 あの英雄には及ばなかったとはいえ、あれに手傷を負わせたメメトハの力はやはり大したものだ。

 戦力としても重要だし、共に戦ってきたことで大切に思う気持ちもある。


 ちらりと目をやるとトワが涼し気に微笑んでいるが、これは悪い時の笑顔だと知っている。こういう笑顔の後のトワは意地悪になりやすい。

 後のことを思うと少しばかり下腹がきゅうっと縮まる気分だけれど。




 砦に近付くと、出てくるものがあった。

 人間の兵士ども。


「こ、こっちにも影陋族だ!」


 慌てた様子で槍を向けてくる兵士に対して、


膚醜ふにく瘢瘍はんようより、蝕め屠膿とうみ蟲斂ちれん


 トワが投げたのは、木の実だ。

 どこにでもある実で、中には表面がトゲトゲした種が八つほど入っている。

 種が他の動物などに食べられないように、そんな棘がついた植物。


 投げられたそれを叩きはらう兵士が、弾けた種の棘で手の甲にわずかに傷を残したが、ただそれだけ。


「た、たった三匹だ! やっちまえ!」


 砦から次々に出てくる兵士は、戦いに臨むという様子ではなかった。

 火の手が上がる砦から逃げだしてくるようだったが、数は十数名。ルゥナ達の少なさを見て勢いを増すようだったが。



「うわぁぁぁ!?」


 木の実を払った兵士が、大声を上げて槍を投げ出した。


「なっ、なんだ?」


 狂ったように自分の手を叩き払い始めた男に、仲間の兵士が疑念の声を上げ、その姿を見て仰天する。


 手が、どす黒い灰色の何かで覆われつつあった。

 先ほどトワに投げつけられた木の実の、小さな傷痕を中心に。



「お、お前なにが?」

「近寄るな!」

「俺の手が、あひぁぁ!」


 蝕むその黒ずみに怯えて掻きむしる男だが、そのせいで傷が広がり、また黒ずみも広がっていく。



「使えますね」


 ぽつりと後ろでトワが呟く。やや楽し気に。

 そして包丁を両手に、混乱する人間の兵士どもの懐に踏み込んだ。


「ぎゃ、ひぃっ!」

「ぐぶぇ」


 彼らとて決して弱くはなかったのだろうが、正体不明の術に混乱した所だったので対応が出来なかった。


 ほとんどが槍のような長物を手にしていたせいもあり、素早く潜り込んでは喉や下腹を突いていくトワを捉えきれない。

 一部、トワを突き刺そうとした槍もあったが、ぬらりと躱したトワの後ろの味方に突き刺さる。



「メメトハ、少し」


 ルゥナも見ているだけというわけではない。メメトハを置いて兵士どもを片付けに剣を振るった。


 あらかた片付けると、トワはまだ血泡を吹いている兵士の服で包丁の血糊を拭う。

 黒ずみを両腕に蔓延らせて息絶えている男を見て、軽く肩を竦めた。



「治癒の魔法、なんですけど」

「そうなのですか?」

「クジャの文献に、地域によって傷口に虫を這わせて血止めや化膿の治療をするという話が載っていたので。クジャで試したらうまくいったんですけど」


 ルゥナの知らない所で誰に試したのだろうか。ちゃんと説明をした上でならいいのだが。

 気味の悪い魔法だった。攻撃を受けてあのようなものが発生したら、毒や何かだと思うのも無理はない。


「くすぐったいそうなのですけど」


 見た目だけではなく肌を触る不快感もあるというのでは、無視することも出来まい。



「……私には、やらないで下さいね」

「あら、ふふっ」


 なぜやらないと約束しないのか。笑うトワの瞳が怖い。



 敵に掠り傷を負わせて、不気味な治癒魔法をかける。

 そんな手法で混乱を招くとか。

 泥の魔法といいトワは搦め手が得意なようだ。やはり性格が影響するのだろうか。


「まあ、そういうのはまた後で」

「やらないでと言っているんです」

わかっています・・・・・・よ、ルゥナ様」


 その目はわかっていない時の目だと、ルゥナもわかっている。

 尚も声を掛けようとした、その時に。



 溜腑峠が、爆発した。



「ぬ、う」

「まさか……」


 大量の泥が、天高く舞い上げられた。

 大量どころではない。その辺り一帯の泥土が全てなのではないか。


「う、あっ」

「ルゥナ様!」


 地鳴り、地響き。

 大地が揺れ、思わずバランスを崩すほどの。



 ぼたぼたぼた、と。

 舞い上がり、また降り注ぐ泥の中に。男はいた。

 荒く肩で呼吸をしながら、その鼻から泥が鼻水と共に噴き出す。凄まじい怒りも共に。


「小娘、どもが……」


 大地を踏みしめる足が、また大地を揺らすように。震わせるように。



「ルゥナ……おぬしの手落ちではないぞ」


 噛み締めるようにかけてくれたメメトハの言葉だが、慰めにはならない。


 倒したと思った。殺したと思った。

 自由の利かぬ沼底に沈めて、あそこから戻るとは思わなかった。


「あれで倒せぬのであれば……」


 打つ手がない。


 罠を仕掛け、罠に嵌めた。

 最も強大な敵を、こちらの思惑通りに沈めたはず。

 思惑と違ったのは、敵のそのあまりに常識を離れすぎた力。



 どれだけの力があっても、呼吸も出来ず何も見えない沼の中でどれだけのことが出来るものか。

 まともに考えて、水中などで拳打などを放ったところで力が満足に伝わるはずがない。まして沼底をぶん殴って辺りの泥を全て巻き上げるなど。


 踏ん張ることも出来ない場所で、そんなことを実現した。

 これを殺すのに、打つ手がない。



「……楽には殺さぬ」


 唸る。低く、静かに。だが離れていてもはっきりと聞こえる声で。


「殺してくれと懇願しても、貴様らの目の前で全ての影陋族をいたぶり殺す。皆殺しだ」


 歩を進めながら、恨みをその足元に踏みしめるように言葉にしながら。



「それまでは、殺さぬ。貴様らの嘆く声とその体で我慢してやろう」


 手に大剣はない。沼の中でもがく間に手放したのだろう。

 だが素手でもこの男には関係がない。その身一つあればどのような相手でも打ち破れると。



 砦を背にするルゥナの背筋が震えるのを、トワの手がそっと留めた。

 打つ手がない。勝ち目がない。だとしても臆している場合ではない。


「ふざけたその口を開けないようにします。永久に」


 邪悪な目でルゥナたちの体を既に手中に収めたように見る人間に、吐き棄てた。

 この男の目にはトワも映っている。



「私は、お前たち人間を殺すことを我慢などしません」


 言葉にして、震えを止める。

 敵も消耗している。荒い呼吸は明白だし、目に入った泥を洗い流すことも出来ない。武器も失っているのだ。


 最大の好機であり最後の機会だとも考えられた。

 たとえ刺し違えてでもこの男を殺す。それが適わないのなら、腕の一本でも落として後のアヴィたちの為に。



「死ぬのは、お前たち人間です!」

「なめるなぁ!」


 切りかかったルゥナの腕は、決して悪くはない。悪いのは相手だ。

 裂帛の気合と共に振り抜かれたルゥナの剣だが、ムストーグはそれを腕で振り払う。鋼鉄よりも硬い。


「くうぅ!」

「この儂を!」


 払われたついでに、地面に叩きつけられた。


「ちぃ」


 腕の皮一枚。

 ムストーグの体に傷をつけた。煩わしそうに舌を鳴らす。

 ルゥナの方は、叩きつけられたところからすぐ立ち上がり、再び剣を構えた。



「何度、でも……」


 傷をつけられるのなら、何度でも繰り返す。

 この男とて生き物だ。いずれは倒れるはず。

 武器を持たぬ以上、その身で受けるしかないのならば、いつかは。



 空間が、切り裂かれた。

 生きる希望を断つように。


 猛烈な勢いで。信じられないほど巨大な戦斧が。

 砦から放たれたその武器が、豪傑ムストーグの足下の大地に突き刺さった。



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