第二幕 055話 山の摂理_1
魔物が溢れた理由は何なのだろうか。
ルゥナの知り得る限りで、考えられる理由は二つ。
人間と魔物の混じりもの。異常な生き物だったキフータスとロドという人間もどき。
力も異常だったが、自然に存在するわけではないあれらに、山の魔物の恐慌が連鎖していったのではないか。
もう一つ理由として思い当たるものは、やはり真なる清廊の魔法の消失。
そういう魔法があること自体知らなかったルゥナだが、ニアミカルムに生きる魔物であればわかっていたのではないか。
魔神――最近では姉神と呼ぶ方が美しく思う、その神の魔法が消えたことでの混乱。
不気味な存在と環境の変化。それらが重なって山脈全体の魔物に影響を及ぼした。それが連鎖、波及したと考える。
動じなかった者もいるのだろう。ソーシャのように千年級の魔物であれば。
ニアミカルム山脈には多くの伝説がある。その中には強大な魔物の存在を匂わせるものもいくつもあった。
有名なものであれば、ミアデがかつて話題に上げた深い谷のヤヤに言われる壱角の大蛇。
山の底、最深部に眠ると言われる
西部、溜腑峠の沼に住まうと言われる鋏を持つ甲殻類、
天まで届くような大樹、始樹の虚に巣を持つというオケラの魔物
数十年前を最後に姿を見た者がいない空の王。
鷹とトビとフクロウの名を持つ。朝、昼、夜と全ての空を統べ、悠然と舞う偉大な魔物だったという話だ。
ソーシャの風貌もクジャでは伝説に謡われているのだとパニケヤから聞いた。
天の峰を駆ける嵐の馬。パニケヤとカチナは共に、幼い頃にそれらしい魔物を遠くの山に見たことがあるのだと。
長い時をニアミカルムで生きてきたソーシャなのだから、そういうこともあるかもしれない。
強大な力を有したそれらの魔物が、狂乱してクジャを襲うことがなかったのは良かった。そんな事態になれば、今度こそクジャが壊滅しかねない。
だが、大きく動いてしまったらしい魔物の分布は、秋になっても過去にない事態を引き起こしている。
少し困った事態を。
クジャ近くの大地を埋め尽くす百を超える魔物の群れ。
これだけで言えば前回の襲撃と変わらぬようでもあるが、大きく違う。全て同じ種類の魔物だ。
真っ白に埋め尽くされた大地はまるで綿を敷き詰めたようにも見える。仮にそこを歩けば鮮血で赤く染まるだろうが。
鋼鉄のような棘針を全身に生やした白い兎の魔物。
こんな群れを作るとは聞いたことがないが、これもまた異常事態の一つか。
メメトハとルゥナ、セサーカで作り上げた氷壁に囲まれ、行き場を失っている。
大した強さの魔物ではない。
清廊族もこれを食べることはあるけれど、棘針で手を指すことがあるのであまり食卓に上るものではない。
強くないから、外敵に食べられないようにこんな姿になったのだろう。
「……どうしたものかのう」
倒すのは容易い。だが、非力な魔物を殺して回ることには抵抗もある。
これが恨みを積み重ねた人間相手であれば容赦もしないが、清廊族は元々無闇に魔物を殺すことを忌避していた。
町に押し寄せたこれらを氷壁で閉じ込めたものの、どうしたらいいのか。
「ソーシャは食べてなかった、これ」
エシュメノの言葉に笑みがこぼれる。
「たぶんエシュメノの口の中が血塗れになるからですね」
セサーカに言われて、嫌そうに口を押える。
ソーシャなら平気だったかもしれないが、エシュメノがこの針髪兎を食べるのは苦労することになるだろう。
針のような毛を取り払って調理するにしても、その間に手が血塗れになりそうだ。
話を聞く限りソーシャは雑食だったようだが、菜食の方が好みだったようでもある。
「このままにもしておくわけにもいかぬな」
やれやれ、とメメトハが肩を落とした。
食用にするにも手間のかかる魔物を、無抵抗な状態で殺すことになってしまう。あまり気分が良いことではない。
食肉なら、前回の襲撃の際に倒した魔物の肉を冷凍保存している。当分は食料に困らぬ程度に備蓄があった。
「メメトハ、私が……」
「待ってください、ルゥナ様」
気乗りしない仕事を引き受けようとしたところで、セサーカが何かに気が付いて杖で指し示す。
「何か来ます」
ルゥナ達がいるのは、針髪兎を閉じ込めた氷壁から見て、クジャの町側。
示したのは、その反対側。山脈側だ。
見れば、一体の巨大な岩狼が駆けてくる。
普通の岩狼より二回りは大きな朽葉色の獣が、猛然と氷壁に向かって。
――かぁんっ。
甲高い音が響く。
爪を立てた場所の氷壁に罅が入った。
「助けようと……?」
魔物同士にそんな意図があるのか。
同種であればともかく、まるで別の種族同士で。
「まずいのじゃ」
全体を覆う為に作った氷壁はあまり強固ではない。針髪兎の力では砕けないにしても。
強靭な体躯の岩狼の爪撃には、二度は耐えられそうになかった。
「……何か、言ってる」
「この数が町になだれ込めば怪我人では済まぬぞ。すぐに」
いくら力弱いとはいえ、鉄のような針を持つ魔物が埋め尽くすように駆ければ、そこに居合わせた者に被害が出る。
クジャの城壁はまだ崩れた場所があり、魔物の侵入を防ぎきれない。
反対側で岩狼が、再度助走をつけてから氷壁を崩そうとしているのが見えた。
「一気に殲滅を――」
「違う! 待って!」
杖を構えかけたルゥナに制止の言葉を投げている時には、既にエシュメノは跳んでいた。
氷壁を飛び越え、その中を埋め尽くす針髪兎の尖った絨毯に向けて。
「エシュメノ!」
「だいっじょうぶっ」
そんなわけがない。
足に刺さり、脛を削る棘の中を、顔を顰めながら進むエシュメノ。
何を考えているのか。
「戻りなさい!」
「もうちょっと、だからっ」
手を伸ばす。傷を負うこともためらわずに。
棘の中に手を伸ばして、一匹の針髪兎を拾い上げた。
「この子!」
「エシュメノ、危険です!」
その手にも当然、針が刺さる。
周囲を埋める針髪兎も、エシュメノの体に体当たりを――
「大丈夫、だから!」
倒れなかった。
小柄な体に刺さる棘にも構わず、言い聞かせるように。
まるで母親が我が子を宥めるように、笑顔のまま。
「真白き清廊より――」
見ていられない。
ルゥナは杖を――死んだ長老が使っていた杖を掲げて詠唱を紡いだ。
周囲の針髪兎だけでも倒してエシュメノを守らなければ。
「来たれ――」
「待つのじゃ、ルゥナ」
援護しようとするルゥナの杖を、無理やりメメトハが下げさせた。
「このままではエシュメノが」
「違う、大丈夫じゃ!」
何の根拠があって、全身に傷を負うエシュメノをその目に映しながら何が大丈夫なのかと。
「妾も、信じられぬ。だが……」
もう一度、エシュメノの姿を確認する。
「何が……どうして」
セサーカが戸惑うのもわかる。ルゥナは言葉が出てこなかった。
メメトハが言う通り、それまで攻撃していた針髪兎が数歩下がっていく。
エシュメノを傷つけぬようにと、その周辺から離れた。
刺さっているのは、エシュメノの手にある一匹の針だけ。
反対の岩狼も、氷壁の前で攻撃を中断していた。成り行きを見守るように。
メメトハは氷巫女の共感という能力でこの雰囲気を察知することが出来て、だからルゥナを止めた。
「エシュ……めの?」
「……壱角。だから」
手にしていたそれを、そっと大地に戻す。刺さった棘は痛いだろうに、優しく。
「大丈夫だから……悪い奴はやっつけたから、もう大丈夫だから」
気づかなかった。
いや、気づけるはずがない。針髪兎の無数の針の中に、一本だけ別の角があることなど。
エシュメノだからそれを感じられて、この群れを統率している壱角に話しかけた。暴れる必要などないと。
針髪兎は凶暴な魔物ではない。強靭な棘針で身を守りながら主に木の実などを食べる生き物。
狂乱して町を襲うことなど普通なら有り得ない、臆病な生き物なのだ。
近日の異変の為にこんな異常行動に走ったが、それを収めることが出来るのならさほど危険はないはず。
「壱角が、他の魔物を……岩狼まで?」
同種の群れを統率したところまでは理解できるが、岩狼を呼び寄せることが出来るとは思えない。
「あれは壱角じゃない。けど、賢い……?」
普通の岩狼より大きいだけでなく、知能も高いということらしい。特殊な個体。
エシュメノは、額の角を通じて針髪兎の思考を受け取っているようだ。
地面に降りた針髪兎に、自分も手を大地に着いて額を近づけている。
「……うん、わかった。ルゥナ、もう大丈夫だから」
氷壁の向こうで、四つ足の姿勢のエシュメノが振り返った。
「落ち着いたって。迷惑をかけてごめんって」
「……そうですか」
「食べないでって言ってるけど……」
「食べませんよ。おとなしく山に帰るなら」
壱角と言っても獣には違いない。自分たちよりも強い生き物に対して思うことは、食うか食われるか。単純な関係。
苦笑を浮かべて、セサーカとメメトハと顔を合わせ、また苦笑い。
無駄に殺さずに済むならそれでいい。
意思の通じる壱角を見つけ傷を厭わず助けようとしたのは、ソーシャと自分の関係を重ねたからという部分もあったのだろうか。
言葉は通じても意思の通じない人間との関係は苦いことばかり。
エシュメノが拾い、繋いでくれたもの。甘いことかもしれないが、たまにはこんな温かさも悪くない。
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