第一幕 101話 生まれる望み
「はあぁっ!」
ミアデの拳がロックモールと呼ばれる魔物の胸を穿つ。
拳の形に心臓辺りを凹ませて、ぼふっと倒れた。
「ミアデ、大丈夫?」
「平気平気。最近なんだか拳が硬くなったみたいで……っ!」
自分の手を握ったり開いたりしていたミアデが、はっと目を鋭くする。
思わず声を掛けたセサーカも身構え、冥銀の魔術杖を斜めに持った。
「……もしかして、あたしの体……がっちがちだったりする?」
敵の気配などではなかった。
強さと引き換えに、自分の肉体が柔らかさを失ってしまったのではないかと、セサーカに向けた上目遣いの瞳が不安げだ。
「もう……」
構えた杖を下ろして、呆れ半分に苦笑いを浮かべるセサーカ。
ミアデの手を取り、その甲にそっと唇を当てた。
「柔らかくてすべすべよ」
「……セサーカの方が肌綺麗じゃん」
「それは、どうなのかしら。ミアデに愛してほしいから?」
「エシュメノも」
別の魔物を仕留めていたエシュメノも駆けてきて、セサーカとは反対のミアデの手を取り頬ずりした。
「ミアデはけっこう強い。エシュメノはミアデ好き」
「あはは、ありがと」
洞窟に潜っての数日でエシュメノもだいぶ元気になった。
ミアデと共に前衛に立つ為、特に親しくなっている。
休憩中、独りでいるとネネランに纏わりつかれるので、なるべくミアデやアヴィの近くにいるようにしていた。
ソーシャを失くしたことから立ち直れたのかはまだわからない。
だが根は天真爛漫な性分のようだ。ネネランから逃げる為でも、こうして誰かと触れ合う姿の方が好ましい。
きっとソーシャも、いつまでも悲しみばかりを引き摺ることを喜ばないだろう。
喋っている間も、遊んでいるわけではない。
倒した魔物を後ろに、針木の松明で前方を照らしながら警戒をしている。
魔物の死骸は手が空いている非戦闘員が捌いていた。
このロックモールの肉は食料になる。洞窟内で他にまともな食料は調達出来ないので、倒した魔物は無駄にはしない。
取れた魔石については、ラッケルタが飲み込んでいた。
「下の方に向かいながら、かなり西に進んでいるように思いますが」
「そうなの?」
ルゥナの感覚では西のような気がするが、実際のところはわからない。
アヴィは周囲を見回しながら、不思議そうにルゥナに訊ねる。
「時折、右手の壁の向こうから水や風の流れる音がします。谷が右手にあるのかと思いますから」
壁の薄いところや隙間から聞こえる外の音が、なんとなく進んでいる方向を教えてくれる。
断崖が右手にあるのだとすれば、西に向かっているのではないかと。
ルゥナの考えた通り、洞窟は断崖の南沿いに西に進んでいた。
右手の岩壁の隙間から日の灯りが差し込む。
山脈を挟んでの峡谷の下、海面近く。日差しはほとんどないが、さすがに洞窟の中よりは明るい。
洞窟の右手が大きく口を開けた。少し下に波打ち渦巻く海面が見えた。
久々に外の空気だ。全員の表情も明るくなる。
渦巻く海面に、大小さまざまな岩が突き出していている。反対岸に、こちらの大きく開けた裂け目とは違い、楕円形の暗い穴の入り口があった。
「溶岩窟、でしょうか」
溶岩の通り道が冷えて固まると、丸っぽい穴になることがあるのだとか。
ルゥナも現物を見たことがない。
断崖からだいぶ山脈内側に寄っているせいか、人間の目に触れることはないだろう。
ソーシャの言った通り、この断崖は越えられる。
「ミアデ、気を付けて」
腰に縄を結び付けたミアデが、片手に火のついた針木の松明を持って岩を飛び移っていく。
向こう岸まで縄を渡したいのと、もしミアデが落ちるようならすぐに引き上げられるように。
この辺りには、白い魔物の群れはいないようだが、用心は怠らない。
幸いにしてここでは何もなかった。
非戦闘員で心配な者はルゥナやエシュメノが抱えて対岸に渡す。
ここで困ったのはラッケルタだったが、アヴィが担ぎ上げて運んだ。
ネネランが向こう岸にいたこともあって、持ち上げられたラッケルタは意外と大人しく身を縮めていて、強者に捕食される獲物のようにも見えた。
「この洞窟を登っていくと大広間のような場所で二股に分かれると。そこを東に登る道へ入れということでしたが」
ソーシャから聞いていた通りのルートにはなっている。
だが、他にも聞いていることがある。
「大広間は、可能な限り早く抜けろ、と」
あのソーシャでさえ警戒する何かがそこにいる。
人間の手が及ばぬ場所に来たからと言って、まだ安全だとは言えなかった。
※ ※ ※
大広間。
自然洞窟には、色々な条件でそういう場所が形成されることがある。
周囲は硬い壁と地面だが、時折柔らかい地面と感じるのは、蝙蝠などの糞の堆積物だ。
水自体は流れているものを沸かして飲用にした。食料も魔物の肉を食いつないでいるが、北側に渡ってからはその魔物が少ない。
食料が少ないという話になるたびに、ネネランがラッケルタを庇うように立つ。
最後の手段だと思っているので、ネネランの行動が的外れだとは言えなかった。
「ここが、大広間だと思いますが」
渡ってから丸一日は洞窟を進んだと思う。
唐突に広い場所に出た。
針木の松明で照らしても天井が見えない。清廊族の目を持ってしても。
「……自然の洞窟、ね」
アヴィが確認するように壁に触れていた。
「何か思うことが?」
「……」
自ら何かを話すことは珍しい。ルゥナが訊ねると、もう一度ぐるりと周囲を見回す。
「メラニアントの巣……じゃない」
アヴィが暮らしていた黒涎山の洞窟にも、似たような広い場所があったのかもしれない。
アリ系の魔物などが巣穴として作ったものではなく、自然に出来た空間だと確認していた。
だだっ広い。地底なのかわからなくなるほど広く感じる。
奥行きがよくわからない。
「とにかく東へ……右手の壁に沿って、上に行けそうな道を探して下さい」
これだけ広ければ少し休憩したいところだったが、ソーシャの助言に従う。
出来るだけ早くここを抜けよう。
ルゥナの考えとは逆に、アヴィの足が止まっていた。
壁に手を当て、俯いている。
「アヴィ?」
「ルゥナ……嘘、ついてない?」
いつも平坦に響く声が震えていた。
「なに……を……?」
聞き返した時に脳裏を
どきりとした。
後ろめたい気持ちが呼び起こされ、答える声も震える。
アヴィは振り向いて、眉を寄せながら首を振る。
「……ずっと、逃げてる」
真実を話すことから逃げているのではないかと。
アヴィは、ルゥナがトワに口づけしたことを知っていて……
「人間から、逃げて……私、気を失ってたけれど、母さんの仇からも……」
「あ、ああ……」
なんだ、その話かと。
安堵して、それからその自分の卑劣な心を責める。
(私、最低だ……)
トワとの浮気を責められるのではないかと怯えて、そうではないと知って安心するなんて。
この気持ちこそ、アヴィへの裏切りではないか。
彼女にとっては母さんの仇など、何よりも優先して殺したい相手なのに。
「……アヴィ」
「本当に、人間を滅ぼせるの? ルゥナ、嘘ついていない?」
この大広間で過去の何かを思い出したことで、そんな不安に駆られた。
足を止めて話すアヴィとルゥナを、少し先に進みかけた他の仲間も心配そうに振り返る。
よくない。暗く閉鎖された場所でこういう話題はよくない。
皆を不安にさせてしまう。
「嘘は、ついていません」
そのことに関してなら。
他に隠し事はあるけれど、人間を滅ぼす算段については嘘をついているつもりはない。
「人間を絶滅させる為にも、貴女がここで死ぬわけにはいかないのですから」
「……逃げてるだけじゃない?」
「ええ、今は生きることが最優先です。仲間だって増えています」
そっと促して、アヴィの背中を見守る仲間たちの顔を見せた。
たまたま近くにいたネネランがやる気を見せるように拳を握り、ラッケルタが首を回して喉を鳴らす。
ユウラとトワが笑いかけ、ニーレが力強く頷いた。
少し離れた場所でセサーカが軽く杖を振り、ミアデとエシュメノが片手を上げて応じる。
「みんな、貴女の力になります。清廊族の里に行けばもっと増えるかもしれません」
「……出来るの?」
「やるんです。母さんの仇を……ソーシャの仇も、必ず討ちます。そうでしょう?」
ルゥナの心中にある後ろめたさは別の問題だ。
アヴィの精神的な幼さを支えるのはルゥナの役目になる。
彼女の特別でありたい。
たとえ、少し気の迷いでトワの唇を求めてしまった事実はあっても、アヴィの特別であり続けたい。
卑怯だとしても、隠せるなら隠す。
(……いつか、きちんと話しますから)
この不安定な状況の今ではない。全員のためにならない。
「アヴィ様」
話しかけたのは、妊婦の女性だった。
「私は、ずっと希望もなく生きてきました。あの牧場で」
「……」
「生きていたとは、言えません。生かされていた……ただそれだけだった」
牧場出身の他の者も、その言葉に唇を噛んで俯く。
「ただ、生かされていた……」
「そうです。奴隷の首輪を嵌められて、希望も意思も許されず生かされていた。私たちに生きる道を作って下さったのがアヴィ様たちです」
アヴィの手を取り、少し膨らんだお腹に当てる。
そこには新しい命がある。
「この子が生まれたら、お名前をいただいてもよろしいですか?」
「なま、え?」
「男の子だったら、アルナ。女の子だったらルビィと」
そう言って、今度はルゥナに目を向ける。
「あ……私、と……アヴィ、ですか」
面食らってしまって、思わず呆けたような応じ方をしてしまった。
アヴィと、自分の名前からの赤子。
「……恥ずかしい」
ぼそりと言って、横目でルゥナを見るアヴィ。
そう言われてしまうとルゥナも恥ずかしい。
「ルゥナが、いいなら」
恥ずかしいって言ったくせに、と責めたくなるが。
「私は……アヴィがよければ、構いませんが」
まるで、二人の子供のようだ。
(アヴィと私の、愛の……)
そう考えたら、かあっと顔が熱くなる。
こんな洞窟の中で何を考えているのか。
「きっと、元気で優しい子になりますから」
自分のお腹を撫でる彼女の顔は、とても優し気で美しかった。
牧場で生まれるのなら、きっとこんな表情は出来なかっただろう。
生まれる子供の将来を考えれば、悲嘆しかない。
本来なら望まれるべき新しい命なのに、生まれる時から陰鬱な気持ちに包まれて。
そんな境遇の清廊族はまだたくさんいるはずだ。
新しい命は、希望と共に生まれてほしい。
「……必ず、人間を滅ぼしましょう。全ての清廊族を解放するために」
「うん……ごめんなさい、ルゥナ。疑った」
ちくりと、心に刺さる言葉もある。
疑われても仕方がない隠し事はあるので。
「まずはここを――」
「ルゥナ様、何か近付いてきます」
ユウラが手斧を手に、大広間の奥を示した。
「戦えない者は後ろに! 松明は分けて持って、東に抜ける道を探して下さい」
ミアデとエシュメノが配置を変えるよう駆けてくる。
ラッケルタに乗ったネネランは、天翔騎士から奪った槍を手にしていた。
「QLLLLLL」
闇の奥、地の底を這うように響いてくる高い声。
声の、群れ。
蠢く影は小さく、だが広間の地面そのものが黒く波打つように見えた。
「ズォォォォジャァァアァァ」
その更に奥から響いたのは、その波打つ黒い影を震わせるような低い地響きだった。
※ ※ ※
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