第一幕 99話 トゴールトに散る_1
「なぜここで休息を?」
疑問に思った部下の質問に、壮年の男は笑った。
「ははっ、嫌な予感という奴だ」
楽しそうに言う内容にしては、あまり嬉しい話ではない。
トゴールトの軍事最高責任者、将軍パシレオス。年齢は四十七歳を過ぎた。
冒険者もそうだが、魔物を狩って強さを得ている者は、かなり高齢でもあまり衰えない。
持久力や視力は悪化していくが、肉体的な強度は病気や本当に晩年になるまで保たれる。
いよいよ死期も近くなれば、さすがに力を失う。
困るのは、時折その強さのまま判断力を失ってしまう者がいて、拘束されたり殺されることもあるが。
ロッザロンドの歴史では、かつて戦士王と呼ばれた男の晩年の凶行が逸話として残っている。
目に付く者全てが魔物に見えたらしく、狂ったように暴れて、数百人が死んだのだとか。
やはり老齢で持久力がなかったからそれで済んだ。全盛期の体力があれば、町が滅んだだろうと。
一線を退いた老齢者は、あえてその力を封じるような魔具を身に着けるようになった。
何の間違いで身近な者を傷つけるとも限らないのだから。
「おかしいとは思わんか?」
「町を襲った賊のことですか?」
「それをクロエの小娘が制したという話よ」
パシレオスに言われた部下は、肩を竦めた。
「そんなこともあるのでは? 将軍も気に入られていたではないですか」
クロエは決して愚鈍な女ではない。
口さがのない者は、親の七光りで天翔騎士になったのだと言うし、本人もどこか引け目を感じている様子もある。
だが、その実力は恥じるようなものではなかった。
「兄よりも使えると、将軍ご自身が認めていたと思いますが」
「いずれはな、そういう器だと見えた。しかし町を襲うような命知らずを相手に出来るとは思わん」
ふん、と鼻を鳴らして首を振る。
「あれは甘い環境で育てられた。狂人を前にすれば、小便でもちびって震えあがるのがせいぜいだろう」
「小便ですか」
「なんだ、見たかったのか?」
「そりゃあまあ」
トゴールトでは少し有名な美しい娘だ。
領主ピュロケスの息子と婚約することは知っているが、そんな娘の醜態なら見てみたいと思うのも自然。
二人で含み笑いを漏らす。
「何か吹っ切れて勇ましく戦ったという線もないわけではないが」
「町を襲うような相手には経験不足と言われますか。敵は守備隊との戦いで既に消耗していたのかもしれませんよ」
「ならいい。儂の勘違いというだけのことだ」
領内の不審な集団と聞いて、天翔騎士どもにでかい顔をさせるのが不愉快で急いで出てきた。
そのせいで、町からの伝令を受けるのがかなり遅くなり、結局町の近くまで戻ってきたのが翌々日の昼過ぎ。
もう少しでトゴールトという場所でパシレオスが全員に休息の時間を取らせた。
「嫌な予感、ですか」
「そもそもその不審な集団というのが本当なのか」
腕を組み、今度は少し難しい顔で唸る。
「天翔騎士がそれを伝え、そうかと思えば反対に町で襲撃騒ぎ。そしてそれを鎮めたのがまた天翔騎士とな。出来すぎではないか?」
「グワン騎兵部隊が壊滅したという話ですが」
「そこから既に、サフゼンの企みかもしれん」
天翔勇士団は出来てから日が浅い。
航空戦力ということで非常に有望視されている一方で、現時点での扱いは新参者の部外者だ。
何かしらの功績を上げたいというのなら、それは理解できる。
だがこのタイミングで、今まで有り得なかったようなトゴールトの襲撃が発生して、そしてそこでクロエが活躍したなど。
筋書きがあるように思えてしまう。
クーデター。
まさかそんなことはないと言いたい。だが力を手にした人間が考えることの一つでもある。
サフゼンがそれを計画して、町の最大戦力であるパシレオスを遠ざけたのではないかと。
事実を知っている者であればただの考えすぎだと言えただろうが、この時点でパシレオスが知る状況からは、不審な部分が多すぎた。
町での騒ぎが治まったというのなら、急ぐ必要はない。
一度ここで息を整えてから、万全の状態で向かう。
部下を預かる人間としては当然の判断だ。
「後ろにも気を付けておけ」
「……まさか」
「何があるかわからんのが戦場だ。味方と思えば違うこともな」
パシレオスは、若い頃はロッザロンドで本物の戦場に長くいた。
その言葉を部下も神妙に受け止め、振り返る。
北の空は、ゆっくりと雲が流れるだけだった。
※ ※ ※
なぜ、口づけなどしてしまったのだろうか。
もう言葉を聞きたくなかった。
聞くのが怖くて、口を塞いだ。それだけ。
――私を、愛してほしい。
最後に聞くと約束した際の言葉だ。
他の人間は、そんな約束を破ったり適当に誤魔化したりするだろう。
けれどマルセナは違う。
約束したのなら守る。当たり前だけれど。
イリアが愛してほしいというのなら、マルセナなりに愛を注ぐ。
歪んでいるとしても、イリアは別に優しくしてほしいとか、イリアだけに肉体を許してほしいとか言ったわけではない。
マルセナは、自分を慕うイリアが心を痛めるのを見るのが楽しかった。
大事に思うほど壊したくなる。
マルセナの行いを見て、イリアの表情が切なさと悔しさに染まるのを見ると、とても強い愛情を覚える。
もっとイリアの心を苛みたい。
揺さぶり、締め上げて、それからその傷を舐るように触れる。
我慢に耐えかねたイリアが、その愛撫に対して心の全てを委ねる瞬間が好きだ。
ようやくイリアを構ってもらえる、と。
そんな風に全てを委ねてくるイリアを、またそこから意地悪して涙ぐませる時なども格別だ。
愛を感じる。脳が蕩けるほどの愛情を。
歪んでいるとしても、それがマルセナの愛情表現なのだから仕方がない。
イリアが望んだものだ。存分に与えよう。
だが、接吻は違う。これはマルセナの愛情の表現の仕方ではない。
間違えた。
もし口づけをするのであれば、クロエにするべきだった。
そうすればきっとイリアは更に切なさに胸を痛め、マルセナに今よりさらに強く執着心を示すだろう。
次は間違えないようにしなければ。
「イリアの願いですもの、ね」
マルセナとて生き物だ。食事もすれば排泄もする。
次の戦いを前に、睡眠と食事をとり、トイレを済ませた。
さすがにイリアもここまではついてこない。外にいるだろうが。
(中に入りたい、とか?)
待っているイリアが悶々としているかと考えたら、つい笑みが漏れた。
(イリアは耳がいいのでしたわ)
呟いてしまった言葉が届いたかもしれない。
迂闊なことは言わないように気を付けなければ。
備えつけられている魔具で水流を発生させトイレを流した。領主の屋敷なのでこんな設備も普通にあった。
「マルセナ、来たみたい」
外から声が掛かった。
「ずいぶんとのんびりでしたわね」
おかげで十分な休息は取れたけれど。
トイレから出てイリアに向けて頷く。
「これが終われば、しばらくはゆっくり出来るでしょうから」
「うん」
イリアはいつも何か言いたげな顔でマルセナを見つめる。
その言葉は聞きたくない。
聞かされたら、信じてしまいそうで。
「あとで、お話をしましょうか」
「……うんっ! ありがとう」
嬉しそうな顔をするイリアに、マルセナの心は痛まない。
この表情が涙目に変わる時に愛を覚えるし、マルセナに愛されることがイリアの願いなのだから。
※ ※ ※
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