第一幕 35話 失われたもの_2
夜通し歩き、昼間も歩いて、この廃村に辿り着いた時は日暮れだった。
雨の中を、幼子も含めて歩き続けたせいで、全員が疲れ切っている。
とりあえず一晩でもここで休息できるのは有難い。
赤子を抱いた女性を皆で囲んで、皆が笑顔を浮かべた。それでようやく実感が湧いてきた。
解放された。のだと。
赤子の父親もいるが、その辺りは色々と複雑だ。
人間は、珍種の交配だと言って、複数の組み合わせで子供を産ませていた。
それぞれの感情とは無関係に命令で子を産まされてきた為に、気まずい思いもある。
だが子供には何も罪はない。誰かがそう言うと、色々なわだかまりは雨と共に流れ去ってしまうようだった。
トワ、ユウラ、ニーレは今回の牧場の生まれではなくゼッテスの本宅の方で産まれた。ユウラとトワは血縁になる。
他の親戚や同胞は、まだ多くがゼッテスの本宅や別の牧場に今も囚われているだろう。
助けられたらと思わないでもないが、足手纏いになる者を連れて出来ることではない。
今は、まず安全な場所まで逃げることが先決。
多少の食料は村に残っていた。廃村と言ったが、つい最近まで人間が暮らしていたらしい。
滅ぼしたのだろう。
清廊族とすれば異常な強さを誇る彼女らが、その力で。
(あの、美しさで……)
そう考えて、自分の考え違いに顔を赤く染めた。
いくら美しくても、それで村を滅ぼせるはずがない。どんな能力だ。
赤くなったのは、その間違いのことではなく、昨日のことを思い出したから。
(……唇、か)
初めてだった。
口づけという行為がではなくて、意味を伴うそれは、記憶にある限り初めてだった。
(唇、かぁ)
トワにとって、初めての意味を持つ口づけ。
目を醒ましてくれた。
呪枷などなくとも、とうの昔から既にトワは奴隷だった。その心は奴隷になってしまっていた。それに気づかないほど。
奴隷でなくなるという意味がわからなくて、じゃあ今まで何だったのかと考えて、考えられなくて。
自分を失った。
友の呼びかけは聞こえていたが、彼女らはなぜ何も考えないのか意味が分からない。
違う。
考えていなかったのは自分だ。
もし首輪がなければと考えていた彼女らと違い、トワは、もし首輪があればとしか考えていなかった。
奴隷でなくなれば、という希望を抱いていなかった。
「はぁ……」
休むよう割り当てられた家には、木の戸が嵌められた窓があるだけ。
外からは大粒の雨音が聞こえてくる。
暗い部屋の中での溜息は、思ったより響いた。
「トワ?」
「どうかしたの、トワちゃん?」
ニーレはトワより少し年上だ。出荷されなかったのは、女の子らしさよりも健康そうな容姿が際立っているからだろうか。
そういうのを好む者もいるだろうが、ニーレは売られずに残っていた。
ユウラは、少しふわふわした印象の女の子だ。年齢はほぼトワと同じ。
彼女は母親似で、やはり清廊族らしくない薄い茶色の髪をしている。もう少し育てば牧場で母体となることになっていた。
どちらも、トワと共に忌々しい男の下に囚われていたわけだが。
「何でもない」
「……トワちゃんの嘘つき」
物心ついてからの長い付き合いになる。簡単に嘘は通じない。
「赤くなってるよ。ルゥナ様のこと考えてた?」
夜目が利くのだから、見えてしまうのだろう。
頬を隠すトワだったが、その態度が答えているようなものだ。
「綺麗だったよね」
「本当に。あれが
「……うん」
隠しても仕方がない。素直に認める。
月のようだった。
曇り空の下で輝く白刃も、三日月のようだった。
静かに見つめられた瞳も、冷たくとも優しい月明かりのようだった。
トワの理想を形にしたような女性。
その唇で目を醒ますなど、本当に物語の主役になったような気分にさせてくれる。
「……また思い出してるね、この子」
「いいなぁ、トワちゃん」
奴隷だった頃から、彼女らとはこんな風に話すことがあった。
もっと暗い表情で、お互いの傷を舐め合うように慰め合うばかりだったけれど。
解放されて浮かれている。
無理もないことだった。
「早く寝た方がいいでしょう。明日も移動だから」
からかわれるのを避けようと、明日のことを言って横になる。
「自分が寝付けなかったくせに」
「ねぇ」
確かに、唇に残る熱を思い出すと、簡単に寝付けそうにはないのだけれど。
(ルゥナ様)
幸せな気持ちで眠りにつく。
そんなことは、今までの人生にないことだった。
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