第380話 老兵は死なず(その2)
「しかし、閣下の頭脳は引退しても尚ますます冴え渡っておられるようですな」
昔痩せ型今肥満体のジューヴェがのっそりと近づいてきて、
「異国の軍勢の侵攻を予見して食い止めるとは、かつて『アステラの猛虎』の下で戦った者として実に鼻が高い限りです」
と称賛したのに、
「ああ、いや、それは買い被りだ。ある人から教えられてここに駆けつけたのよ」
ティグレ・レオンハルト将軍は笑って否定してから、
「とある女子から国家の一大事だと聞かされなければ、わしとて気付かずにいたところだ」
長く伸びた顎髭を撫でながらつぶやくと、
「へえっ! そいつはまたずいぶんと目端の利くご婦人がいたもんですねえ」
小男のガンスがオーバーアクション気味に驚いてみせたのに、強面で鳴らす老騎士も噴き出しそうになる。
(確かにわしも長く生きてきて、あれほど賢い女性に会うのは初めてであったが)
「アステラの猛虎」は数日前の記憶を思い起こしていた。
「是非とも閣下のお力が必要なのです」
表面のあちこちがひび割れた木製のテーブルの向こうに座った若い女性が話を切り出すなり、
「よかろう。引き受けた」
ティグレ・レオンハルトがあっさりと承諾したのに、麗しい容貌を持つ来客は「ぽかーん」と音が出そうになるほどに呆気にとられた表情に一瞬だけなってから、
「まだ何をお願いするのか申し上げていませんが」
若干むっとした顔になった。安請け合いされたのにプライドが傷ついたらしい、と見て取った堂々たる体躯の老人は、縁が欠けたカップに口を付けて、
「そなたと会うのは初めてだが、そなたのことはよく知っておる。都から流れてきた風聞やセイジアから聞いた話でな」
ずるずる音を立てて茶を飲んでから、
「わが国きっての才媛と名高いリブ・テンヴィー殿の頼みだ。内容がどうだろうと聞かぬわけにはいかぬだろう」
とアステラ王国南部の田園地帯で暮らす退役軍人の下を訪ねてきた女占い師を悠然と眺めた。
「セイは何か変なことを言ってませんでしたか?」
リブがいくらか不安げに訊いてきたのに、
「いや、とてもよくしてもらっている、と感謝しておった。あのおてんばと一つ屋根の下で暮らすのはさぞかし骨が折れることだろうが」
「ええ、そうですね。あの子と暮らしていると毎日驚かされてばかりですが、でも退屈しなくてとても楽しく過ごせていました」
わたしの方が助けられていたんです、とリブが微笑んだのに2人の間にある確固たる絆を認めて、老人は胸が温まるのを感じながらも、
(なるほど。セイジアが「無茶苦茶セクシーだぞ」と言っていたのはまことであったな)
対面の美女に不躾な視線を送ってしまっていた(隻眼だから無礼さも半減しているのではないか、と冗談っぽく思いながら)。肩まで伸びたブルネットの髪、華やかな顔立ちを知的に飾る縁のない眼鏡、襟元が切れ込んで肩と胸元が露出したワインレッドのドレス、深いスリットからのぞく長く白い脚とこの上なくマッチした銀のハイヒール。田舎暮らしの元将軍を訪問するにはTPOを全くもってわきまえないファッションというべきだったが、
「正しいのはわたし。間違っているのは世界」
と言わんばかりに発散される強烈なフェロモンにはありとあらゆるルールを屈従させるだけの威力があり、老いたとはいえ男性である「猛虎」をも陶然とさせずにはおかなかった。
「あの、閣下。詳しく説明したいのですが」
リブに声をかけられて、ようやく恍惚から覚めた老騎士は、
「おう、そうであったな。では話を聞くことにしよう」
気まずさをごまかそうとしたのか、大きくなりすぎた咳払いが老人が一人暮らす昼下がりの陋屋の隅から隅まで響き渡った。
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