第372話 国境線上の秘闘(その6)

「近寄るんじゃない、ビリジアナ!」

トール・ゴルディオの叱声がいささか鋭すぎるように聞こえたのは、メイドに対して怒っていたからではなく、おのれの中に残る依頼心を断ち切りたかったからだ。彼女はあまりに優しすぎてつい甘えたくなってしまうのだが、苛烈を極める修行の場において少年は自らを常に限界まで張り詰めさせておきたかったのだ。

「出過ぎた真似をいたしました」

グラマーな肉体を制服で包み隠した美女はすぐさま主人に頭を下げたが、その糸のように細い目から憂慮の光が消えたわけではなかった。

(ずいぶんと変わられてしまった)

ビリジアナの目の前にはトールの裸の上半身が露わになっていた。服を着ている限りでは、ゴルディオ家の跡取り息子は騎士団に入る以前と変わらない華奢な体つきだとしか思えないのだが、シャツを脱ぎ捨てた少年の両腕と肩と背中にはごつごつとした筋肉が盛り上がっていて、いまだに幼さの抜けきらない容貌と好対照をなしていた。本来であれば召使として主の成長を喜ぶべきなのだろうが、

(あんなもののために)

侍女は地下室の床に横たわった「魔神の大槌」を憎しみをこめて見つめた。あの巨大な武器を我が物とするためにトールが心身を痛めつけているのをビリジアナは気に病み、特訓の副産物として男らしく変貌を遂げた少年の肉体にも抵抗を感じずにはいられなかったのだ。いずれ当主になる身として代々伝わる家宝を思うがままに操りたい、と願う少年の気持ちは理解したかったが、彼女にしてみれば彼がしなくてもいい余計な苦労をしているとしか思えなかったのだ。あなた様はそのままでいてくださればいいのです、。そんな風に何度も諫めたのだが、トールの身の丈に余る野望を押しとどめられはしなかった。愛や優しさでも救えないものがある、と聡明な女性は知りたくもなかった真理に触れて、蕁麻いらくさに刺されたかのような苛立ちを覚えてしまったが、

「心配しないでくれ。ぼくの性格はおまえが一番よくわかっているはずだ」

よろめきながら立ち上がったトールを見つめるビリジアナの左目から涙がこぼれ、目尻の黒子ほくろを通り過ぎて頬を伝っていく。ああ、その通りだ。一度決めたら絶対に曲げない、その頑なさがわたしには何よりも愛おしい。そして、彼もまた彼女のことを信頼してくれている。それが何より嬉しくて、

「あまり無理をなされませんように」

ゴルディオ家のメイドは主人の説得を断念し、ただ黙って彼のやることを見守ろう、何があってもずっとそばに居続けよう、と心を決め、不安で震えそうになる両手を固く握りしめた。

(ビリジアナがいるんだ。これ以上恥ずかしいところは見せられない)

メイドの存在に励まされたのか、トールの身体は辛うじて動けるようになっていた(少年が稽古を開始してからずっと見守り続けていたのに、気配を感じさせなかった彼女はやはり卓越した技量の持ち主なのだろう)。とはいえ、

(これ以上どうすればいいのかわからない)

今のトール・ゴルディオには先が全く見えていなかった。無明の闇の中にいるかのように、顔の前にかざされた自分の手すら見えない心許なさに襲われていた。やれることは全部やった。しかし、それでも「魔神の大槌」は少年に応えてはくれない。いくら血と汗と涙を捧げようとも努力は実を結ばず、何百何千の試行を繰り返しても鈍重この上ない武具が手に馴染んだ感触を持てずにいた。もちろん諦めるつもりなどなかったが、だからといってさしたる方策も見出せぬまま老いさらばえていくのか、という絶望感が足元から押し寄せるのを感じた。

(やはりぼくには資格がないのか)

トールはビリジアナと違って「魔神の大槌」が絶対だと信じて疑わず、失敗を重ねているのは自分のせいだと思い込んでいた。この鉄槌はゴルディオ家に数々の輝かしい武勲をもたらしてきた完全なる存在なのだ。間違っているはずがない。

(そうだ。「魔神の大槌」は無敵なのに、ぼくがそれを邪魔しているんだ)

上手くいかずに失敗するたびに自分を傷つけるのにすっかり慣れっこになってしまっていた少年だったが、

(あれ?)

その自虐を思い浮かべた瞬間に、ばち、と火花が散った音が聞こえ、そしてあたりを支配していた暗黒が薄れつつあるのをトール・ゴルディオは自覚していた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る