第367話 国境線上の秘闘(その1)

「もし万が一、ぼくがあの者におくれを取るようなことがあれば、おまえが代わりに全軍の指揮を執って直ちに前方を突破し、目的地へと急ぐように」

団長のトール・ゴルディオにそのように命じられたマズカ帝国鉄鯱騎士団一番隊隊長は思わず息を飲み込んだ。ついさっき、彼らの行く手を邪魔する老人たちのリーダーと交わした約束を自分からぶちこわしにするような指示を出したのだから戸惑わないわけにはいかなかった。相手を騙すようで卑怯ではないか、と考えかけてから、

(それは一般社会における常識であって、われわれ騎士はそうではない)

と思い直した(団長と同じ20代前半の隊長は戦場に出たことがなく、骨の髄まで騎士になりきっているとは言いがたかった)。彼らにとって一番重要なのは任務を完遂することであって、目的を達成するための虚言は否定されるどころかむしろ推奨されるべきものなのだ。それに、団長が敗れた場合に「自分を助けろ」と一言も言わなかった、我が身を省みない態度も隊長の胸を打っていた。だから、

「承りました」

単純明快な返事と共に頭を下げた。「ああ、しっかり頼むぞ」とさわやかな笑みで部下に応えたトールは後頭部に視線が突き刺さるのを感じて苦笑いを漏らす。誰に見つめられているのか、確かめるまでもなく分かりきっていたので、

「心配するな、ビリジアナ」

とすぐそばのメイドに呼び掛けて、

「ぼくは必ず勝つ」

と力強く言い切った。子供の頃からいつもそばにいて世話を焼いている侍女を安心させようとする心遣いにあふれた口調に、ビリジアナは喜びよりもむしろ痛みを覚えた。

(あのお方は強い)

これから主人が1対1の勝負をすることになる謎の老人の力を彼女はひしひしと感じていた。もちろん、トールも若くして騎士団のトップに登り詰めただけあって、帝国で十本の指に入る強さを誇っていたのだが、2人の団員を瞬く間に叩きのめした隻眼の騎士の技量は底知れぬものがあった。青年がこれまでに対峙したことのない強敵だ、という予感が美しきメイドの胸を満たす。

(トール様を戦わせたくない)

ビリジアナは切に願ったが、彼女の仕える若者は決闘を望んでいた。つまり、自らの思いを叶えようとすれば主人を裏切ることになってしまう。どうにもならないアンビバレンツにさらされたメイドにできたのは、

「ご武運を」

と出来得る限り冷静なふりをして若武者を送り出すことだった。大切な人を危険から遠ざけようとする愛もあれば、危険に挑む者を信じて待つ愛もあるのかも知れなかった。

「ああ、行ってくる」

トールはビリジアナに笑いかけてから、ひらり、と鎧を着ているとは思えない身軽さで馬から飛び降りると、

を持ってきてくれ」

と従者に命じた。トール・ゴルディオが重要な場面で必ず用いる得物を手にしようとしているのだ。闘争の時間が刻一刻と迫るのを感じながら、

(どうかご無事で)

千々に乱れる心をつなぎ止めようとするかのように、ビリジアナは両手を固く握り合わせて祈りを捧げ始めた。


一方、鉄鯱騎士団と相対する集団では、

「話が違うじゃないですか、大将」

小男が地面に下りた老将に文句を垂れていた。

「何が違うというのか」

いささかうんざりした様子の巨漢に、

「だって、おれらは一緒に戦いたいのに、大将一人だけで向こうのボスと戦うだなんて、がっかりもいいところですよ」

背の曲がった男がすっかりふてくされたのに、老騎士は白い髯を震わせて笑い、

「文句があるならあの若僧に言え。一騎打ちを望んだのは奴の方だ」

とにべもなく言い切る。至極もっともな理屈を言い返せない小男を無視して、

(騎士団をまるごと相手にするよりは、一対一の方がだいぶ気楽ではあるが、引退してからというもの、命のやりとりをする機会は絶えてなかったわけだからのう。さて、どうなることか)

長いブランクがどのように作用するのかを巨軀の老人が思案していると、

「おい、あれは一体何だ?」

仲間の誰かが叫ぶのが聞こえた。我に返って前を見つめた老戦士も、

「ほう。これは面白い」

と思わず驚きの声を上げていた。

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