第353話 女王蜂の一刺し(その5)

「けっ。げっ。かふっ。かっ、かっ、かっ」

宰相の口から国王スコットへの不変の忠義を誓う言葉は出て来なかった。

(何故だ? 何故声が出ない? 何故思うように口が動かない?)

幾多の論敵を圧倒してきた弁舌が働くことなく凍り付いていたのは、彼自身がいざとなれば主君の譲位あるいは退位を検討していた事実があったのに加えて、セイジア・タリウスとリブ・テンヴィーの手によって「平和条約」の成立が邪魔されて既に心理的に多大なダメージを負っていたためにもっともらしい言い訳をするだけの力が残されていないからでもあった。心が折れてしまった以上、論争術を生かせる余地はなかった、ということになる。そして、脂汗を流し白目を剥いて身悶える男の姿に人々は反逆の腐臭を嗅ぎ取り、昨日まで圧倒的な権威を振りまいていた支配者は、唾棄すべき君側の奸へと転落していた。これがジムニー・ファンタンゴに「裏切り者」の烙印が押された決定的な瞬間であった。

(はっきり言ってラフプレイなんだけど、上手く行ったようね)

リブは取り澄ました顔をしながらも、自らの計略にダーティーな部分が含まれていたのを認めざるを得なかった。何故ならば、王政の下で働く政治家にとって主君が不測の事態に見舞われることは当然想定してしかるべきことであったからだ。王とて人の身である以上死や病に見舞われるのは避けられず、考えたくなくとも「まさか」に備えるのが国政を担う者の務めとも言えた。とりわけファンタンゴは切れ者であり、王座に空白が生じる状況を考えていないはずがなく、アマカリー家の若き貴婦人は宰相を陥れるのに彼の優秀さを利用したわけでもあった。通常であれば周囲もある程度理解を示し、裏で工作をしていたのも不問に付されたかもしれなかったが、国王並びに王国への数々の背信が暴露されたことによって信頼度が地に落ちた男の言葉が届くはずもなかろう、という女占い師の予想は外れてはいなかった。とはいえ、それ以前に大臣の精神が音を上げるとは思っていなかったので、若干拍子抜けもしていたのだが。

「もう良い」

長い沈黙を破った国王スコットの一言が宰相の耳を打った。高い玉座の方を振り向くと、

「余はファンタンゴを信頼しておる」

とだけアステラ王がつぶやいたのが聞こえた。発言自体は大臣を責めるものではなかったが、年齢に似合わない疲労が沁みついた声、そして青年が前を見据えたまま視線を動かそうとしない様子に、ジムニー・ファンタンゴはその言葉とは裏腹に王からの信頼が失われ、それが決して戻らないことを悟っていた。がっくりと床に膝をついた実力者は、一気に十歳いや二十歳以上は年老いたように見えたが、

(宰相様、これで終わりじゃないわよ。わたしの大事な人を苦しめた報いは、こんなものでは済まされないわ)

蜂が自らの命と引き換えに相手に激痛をもたらす一撃を加えることはよく知られているが、規格外の存在であるリブ・テンヴィーは女王蜂にも例えられる存在で、彼女が深く差し込んだ針から流れ込む猛毒がやがてファンタンゴをさらなる地獄に導いていくことになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る