第325話 砂漠の覇者、手紙を受け取る(その7)

大宮殿のだだっぴろい厨房には料理長がひとり居残っていた。明日の朝食の準備に余念の無いプロフェッショナルに親衛隊長は声を掛けるのを躊躇っていたが、

「おや、隊長殿。このような時間にこのような場所までいらっしゃるとは二重の意味で珍しい」

幸いなことに向こうから気づいて振り向いてくれた。丸々とした輪郭に収まりきらない人なつっこい笑顔につられそうになるのを我慢してから、

「夜分遅く済まないが、酒を貰いたいのだ。上様が所望しておられる」

主君の名を聞いた瞬間に老齢に達しつつある料理人の背筋がぴんと伸びて、

「そういうことでしたら、簡単ではありますが夜食を大急ぎで作ることにいたします。家臣として上様にひもじい思いをさせてしまっては万死に値します」

いや、そこまでしなくとも、と止めようとしたものの、既に食材の吟味に入ったシェフを止める手立てはないものと判断した宮廷の警備責任者は、

「そこから勝手に持って行かせて貰うぞ」

と一応断ってから、壁に立てかけられた棚に並んだうちから土瓶をひとつ持ち出したのと同時に、とんとんとん、と包丁で何かを刻む音が聞こえてきて、早くも調理が開始されたのがわかった。

(お互いご苦労なことだ)

超過残業を厭わないワーカホリック同士として思わず共感してしまったが、彼らが苛酷な勤務をあえて望むのは、太守のためなら何でもしたい、この命を捧げてもいい、とまで思い詰めた極限の忠誠心があるためだった。将軍から小間使いに至るまで、身分の貴賤と職務の軽重に関わらず、家来たちの胸には砂漠の太陽よりも熱い思いが常に存在し、それこそがサタドを一大強国たらしめているのかもしれなかった。


「『早く帰れ』と何故言ってやらないのだ」

親衛隊長から料理長について聞かされた太守は苦笑いを浮かべたが、

「あの者は上様の御為に尽くしたい一心で動いているのです。たとえ上様が止めたところで聞き入れはしないでしょう」

忠義が行き過ぎて反逆になっているではないか、と砂漠の統治者は呆れてしまうが、

(我はよき家臣に恵まれたものよ)

と満ち足りた気分も味わっていた。彼は女性を何よりも愛していたが、それとは別の形で従僕たちを深く思っていたのだ。

「これで良し、と」

覇者にふさわしい重厚な作りの机に向かっていた太守はなめらかに滑らせていた筆を止める。リブ・テンヴィーから届いた手紙の返事を書き終えたらしい。

「おかしなところがないか確認してくれ」

と信頼する臣下に太守のみが用いることのできる特製の紙を手渡す。「それはよろしゅうございますが」と精悍な顔を訝しげに歪めた隊長は、

「何故ご自分でお書きになられたので?」

と訊ねた。サタドに限らず、一国の元首は文書を作成する際に専門家に一任する習わしになっていて、太守も普段はそれに従っていたのだが、

「我が自分で書いた方が早いし、ずっと出来もいい」

つまらないことを聞くな、と鼻で笑われて、「つまらないことを聞いた」と隊長自身も思っていた。太守は名文家としてもよく知られ、この物語の時代から時を隔てた現代でも、彼の遺したいくつもの書が各地の美術館に展示されているのは周知の事実であろう。

「実に素晴らしい出来映えでございます」

褒め言葉にも「まあ当然だな」と傲然たる態度を崩さないのはいかにも権力者らしい身振りであったが、高い天井に視線をさまよわせてから、

「さて、我の手紙をリブがどう使うのか、実に見ものよ」

楽しげに呟いた様は、ダイスの行方に運命を託した賭博者のようにも見えた。かつて惚れていた(今も?)女子のために危ない橋を渡った自覚が、砂の国の風雲児にあったとしてもおかしくはないのかもしれなかった。


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