第169話 気の迷い、それとも(中編)

ひそかに憧れていた少女に叱責されてハニガンは怯んでしまうが、ここにやってきた目的をすぐに思い出すと、

「言いつけを聞かなかったことは謝りますが、ナーガさんにどうしてもお伝えしなければならないことがあるんです」

「なに?」

村長の剣幕に「ただならぬことが起こっている」と察したナーガ・リュウケイビッチは眉をひそめる。田舎で生まれ育った青年はどのように話を切り出すべきか少しだけ迷ってから、

「ジャロくんが洞窟を脱け出して村へ戻ってしまいました」

結論から先に知らせることにした。予想も出来ないことを聞かされたモクジュの少女騎士の顔が一瞬にして青ざめる。

(まさか、そんな)

それはナーガにとって凶報に他ならなかった。リュウケイビッチ家の再興を託されたまだ11歳の御曹司が、そうでなくても彼女にとって最愛の少年が自ら危地に飛び込んだのだ。とても冷静でいられるはずがない。ハニガンの話をさらに聞いてみると、ジャロ少年は村の少女マオが可愛がっていた飼い猫を連れ戻すため近頃友達になった悪童マルコと一緒に戦火が近づきつつある集落へと向かったのだという。なんて馬鹿なことを、と思いながらも「ジャロならやりかねない」とも感じていた。女の子のように可愛らしい顔をした泣き虫の少年は誰も予想していない突発的な行動を取って周囲を驚かせることが時折あったのだ。そんな弟(本当は叔父だが)を困りながらも心から愛おしく思っていたのだが、今回ばかりは看過できない、と腹が立って仕方が無かった。将来ある身であるにもかかわらず軽はずみな行動をとったことをきつく注意しなければならない、と思ってから、それ以前に争いに巻き込まれて無事で済まないのではないか、と心の中にいくつもの波紋が生じてざわついていくのを感じた。そんな風に思い詰めていたからなのか、

「村長のおまえがいながら、どうして子供たちを行かせてしまったんだ」

つい恨み言を吐いてしまう。「蛇姫バジリスク」の論難にハニガンは「すみません」と小さく呟く。彼の表情に強い後悔の念が浮かんでいるのを見て、

「すまない。八つ当たりしてしまった」

ナーガはすぐに詫びる。決して彼の落ち度ではない、というのはわかっていたのに、どうしても我慢が出来なかった。「いえ」と青年は表情をどうにか取り繕うと、

「パドルさんが迎えに行きましたから、ジャロくんもマルコもきっと無事に帰ってきますよ」

と告げた。絶望的な状況にあってそれは唯一のかすかな光明だと思われた。リュウケイビッチの老執事なら少年の危機を見事に救ってくれるものと信じたかったが、ナーガもよく知る村の娘モニカもパドルに同行していると聞いて、

「どうしてモニカまでついていったんだ?」

首を捻ってしまう。これにはハニガンも答えようがなくて「さあ?」と困り顔をするしかない。いくら思春期の少女とはいえ突拍子のなさ過ぎる振る舞いであり、当の本人にも自分が何をしているのかよく分かっていないのかもしれず、他人が理解できなくても無理はないのかもしれなかった。

「ナーガさん?」

若い村長が驚いたのは、地面に蹲っていた少女騎士がいきなり立ち上がったからだ。傷ついた左脚を引きずりながらゆっくりと向かった先には一つの死体が転がっていた。他の戦死者よりも上等な鎧をまとっていたので、生きている間は位が高かった者だと想像できたが、顔から肉と皮膚が剥がれ落ちて頭蓋骨が露出した見るも恐ろしい姿になっていたので、さほど臆病ではない青年も正視できなくなって目を背けてしまう。だが、ナーガは平然と屍に近づいたばかりか、なんとその懐に遠慮無く手を突っ込むと、

「やはり持っていたか」

ふん、と鼻を鳴らしてから、白い布きれを取り出した。それは荒熊騎士団左翼長マクスウェルの亡骸だ。生前は実に気障ったらしかったこの男ならハンカチーフを持っているだろう、という見込みが当たった格好で、さんざん苦しめられた敵将に対する憎しみが若干薄らぐのを感じた。

「借りるぞ」

と返すあてもないのは承知のうえでつぶやいてから、ハンカチを左膝の負傷した箇所に巻き付ける。それでも痛みは消えず、清潔な布帛にたちまち赤い液体が滲んでいくが、動くのが楽になったのは確かだった。を考えれば贅沢は言っていられない。さっきよりも確かな足取りで元いた場所に戻ると、異国から来た娘は立ったまま鉄靴を履き直す。

「どうするつもりなんです」

と問いかけた村の若者に、

「わたしも村へ行く」

ナーガは笑いかけた。苛酷な戦いによって憔悴しきった美貌に浮かぶ微笑みは可憐そのものと言うしかなかったが、

「無茶ですよ。そんなひどい怪我をしているのに」

ハニガンは血相を変えて止めようとする。足は手当てをしたものの、背中の怪我は手つかずのままだ。しかも、今まさにこの瞬間にもジンバ村では戦闘が開始されているかもしれないのだ。だが、

「無茶だろうとなんだろうと、弟が危なくなっているのを姉として見過ごすわけにはいかない」

ナーガ・リュウケイビッチの決意は変わらなかった。神や悪魔といった人間を超越した存在でもこのときの彼女の心を動かすことは出来なかっただろう。肉親の情に突き動かされた「蛇姫」はいささかも躊躇を覚えることなく、傷ついた身体でありながら戦雲迫る危険地帯に急行しようとしていた。

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