第168話 気の迷い、それとも(前編)

ジンバ村北方における「蛇姫」ナーガ・リュウケイビッチとマズカ帝国荒熊騎士団別動隊の戦いはほぼ決着がついていた。たったひとりの少女騎士は隊を率いるナイフの名手マクスウェルを仕留めたばかりか、約50人もの騎士たちを相手に見事に勝利を収めたのだ。脚と背中に決して軽くはない傷を負ったモクジュの乙女ならどうにかなると考えた帝国の男たちは退くことなく挑みかかったものの、彼女のふるう「鉄荊鞭」の餌食となり、

「ひいいいいいいっ!」

「逃げろおおおっ!」

生き残りが4、5人になった時点でようやく逃走を開始した。もっと早く退却していれば命を落とさずに済んだ者も少なからずいたはずだが、あえて撤退しなかったのは、隊長の敵討ちをしたかったからなのか、若い娘にやられたままむざむざ帰れないというチンケなプライドなのか、逃げ帰ったら団長のザイオン・グリンヴァルトに罰を下される恐怖心なのかはわからない。あるいはその全てがあてはまるのかもしれなかったが、

「待て!」

ナーガは誰一人として逃がすつもりはなかった。一人でもここから帰せば、村の西方に陣取った本隊に急報が届き行動を開始するおそれがあったからだ。本隊にはセイジア・タリウスが奇襲をかけるプランになっていて、

(生意気な女だがこういうときは頼りになる)

どうにかしてくれるものと期待はしていたが、戦場において万事がうまく運ぶことはない、というのはまだ十代の「蛇姫」もよく知っていた。自分の役割はいかなる場合であっても果たしたい、と真面目な娘は強く願っていたが、

「あっ」

精神ほどに強靭ではない彼女の肉体は限界に達し、足を滑らせて転んでしまう。「マック・ザ・ナイフ」の手で負ったふたつの傷からは大量の血が流れているうえに、勝利がほぼ確定した状況で気が緩んでしまったのは否定できなかった。

(心構えが全然なっていない、って、おじいさまが生きていたら大目玉だな)

叱られてもいいからもう一度会いたい、と今は亡き祖父へと思いを馳せながらも、うつぶせに倒れたナーガには立ち上がる力も残っておらず、遠くへと逃げ去る敵兵の背中をかすんだ瞳で見送ることしかできずにいたそのとき、

ひゅん! ひゅん!

鋭く風を切る音が聞こえたかと思うと、

「ぐっ」

「げえっ」

「ぎあああ」

一目散に逃走を図っていた帝国の騎士たちが悲鳴とともに音を立てて地面へと倒れた。咽喉、こめかみ、うなじ、眼窩。部位は異なっても矢で貫かれているのは皆同じだった。

(えっ?)

何が起こっているのかわからない少女騎士が顔を上げようと努力していると、

「ようし。全員やっつけたな」

狭い街道の脇に生い茂った森の中から体の大きな男が出てきた。毛皮のチョッキを着て弓を手にしている。ジンバ村の猟師ゴアだ。先頃ネネという女の赤ん坊が生まれたばかりで、ナーガも何度か抱っこさせてもらっていた。そして、ゴアの後ろから彼と似たいでたちの男たちが何人か現れた。

「いやあ、人間を矢で撃ったのは初めてだが、案外簡単だったな」

「まったくだ。あれなら猪か狐の方がなんぼか大変なくらいだ」

「やっぱり狩りは人間でなく獣を相手にするのが一番よ」

聞きようによっては恐ろしい会話をしてから男たちは、がはははは、と大笑いする。彼らもゴアと同じ猟師だというのは、村を毎日訪れていた「よそもの」の少女でもわかったが、その彼らがどうしてここにいるのかわからずに困惑していると、

「ナーガさん!」

森の中から一人の青年が飛び出してきた。

「ハニガン?」

村長として村人たちを率いて避難しているはずの若者がどうしてこんなところへ、と訊ねようとしたが、

「ああ。なんてことだ。こんなにひどいケガをして」

ひそかに慕っていた異国の少女が満身創痍になっているのを知ったハニガンの顔から血の気が引いて真っ白になっているのが夜目にもわかったので、ナーガも何も言えなくなってしまう。

「どうしよう、すぐに医者に診てもらわないと」

動顚しておろおろする純朴な青年を見ているうちに「蛇姫」の心は徐々に落ち着きを取り戻し、体を起こすのに成功する。

「落ち着け。確かにだいぶ血は流れているが、命には別状ない」

「いや、でも、しかし」

「それに」

語調を強めながら金色の瞳でハニガンをしっかり見つめて、

「医者はここにいる」

きっぱりと言い切ると、「あ」とハニガンは間の抜けた声を出してしまう。ナーガ・リュウケイビッチには医学の心得があって、村の病人や老人たちの診察をよくしてもらっていたのを思い出したのだ。

「といっても、薬も道具もないから応急措置しかできないが」

とぼやいているところへゴアがやってきて、

「ナーガさん、水を持ってきたが、要るかね?」

革袋を差し出してきた。長く続く猟の合間に水分補給をするため、常に水筒を持ち歩いているようだった。

「ありがとう、助かる」

袋に入った水の半分ほどをごくごくと飲み、残り半分で左脚の傷口を洗う。

「くうっ」

冷水が沁みて痛みが走るが、放置しておくと腐って切除を迫られることになりかねず、手当てはやらなければならなかった。とはいえ、背中の傷は自分では処置できないから、後で村に戻ってからセイに治療を頼まねばならないだろう。彼女も騎士として怪我を治療することはできる、と以前聞いていた。

(たぶん縫う必要があるだろうな)

山奥の小さな村に麻酔があるはずもなく、激痛に耐えなければならないことを考えると今からげんなりするが、それでも久しぶりに水を飲んだことと、顔見知りに会えたことでナーガはだいぶ元気を取り戻していた。三日月が満月になっていくように、ひとりぼっちの戦いで擦り減った精神が回復していくのを感じて、ほっと息をつく。

「礼を言うぞ、みんな」

モクジュの美少女に頭を下げられたむくつけきハンターたちは髭に覆われた顔を揃って赤くした。東に高くそびえる山脈を登攀し国境を越えてきた彼女に対して山の男たちは大いに敬意を払っていたのだ。

「ただし、ハニガン。おまえはだめだ」

「はい?」

だしぬけに厳しい声をかけられて、村長は飛び上がりそうになる。

(しまった。ばれてしまったのか)

彼は今まさに、鉄靴を脱いだナーガの長い左脚に見とれている最中だった。褐色の肌が血と汗にまみれて光沢を帯びているのがなんともなまめかしく、村の存亡にかかわる非常時にもかかわらず欲望が湧いてくるのをおさえきれずにいたのだが、

「わたしは怒っているんだぞ」

劣情に支配されかけたのを見抜かれたと思って謝罪しようとするが、

「どうしておまえはわたしの言いつけを聞かないんだ?」

「はい?」

どうも彼女が怒っている理由が他にあるようだ、と気づく。ふん、とナーガは鼻を鳴らしてから、

「わたしはおまえに言ったよな? 村長として村のみんなを守ってくれ、と。なのにどうして、今おまえはここにいるんだ?」

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