第154話 不確定要素(その3)
「マルコ!」
ジンバ村からの避難民が入った暗い洞窟の中に女性の悲痛な叫び声がこだました。
「どこ行っちまったんだい? うちの馬鹿息子。こんなときにかくれんぼなんかしてたら本気で怒るからね?」
夫に死なれた後、女手一つで村のガキ大将を育ててきた肝っ玉母さんの涙混じりの声に、村人たちはざわつきだす。
「マルコがいなくなったんですか?」
若き村長ハニガンが腰を浮かして詳しい事情を訊きに行こうとすると、
「すまん、ハニガン」
クロウじいさんがやってきた。
「それに、パドルさんもすまん」
名を呼ばれたリュウケイビッチ家の老執事パドルが近づいてくると、クロウが孫娘のクロエを連れてきているのに気づいた。いつもおしゃまな娘の頬は涙に濡れて、
「ごめんなさい。わたしが余計なことを言ったから」
ぐすんぐすん、としゃくりあげていた。
「お嬢ちゃん、泣くのはおやめ。この爺さんに何があったか話しておくれ」
ナーガ・リュウケイビッチが不在の今、モクジュからの避難民たちをまとめる役目を担っている老爺の柔らかな声に誘われて、クロエは詳しい事情を話し出した。なんと、マルコ少年がいなくなったのは、ナーガの弟ジャロ・リュウケイビッチとともにジンバ村へと向かったからだという。しかも、その理由が少女マオの家に取り残された一匹の猫を助けるためだというのだから、聞く者は驚きかつ呆れるしかなかった。
(なんて馬鹿なことを)
これから敵が襲ってこようとしている集落に戻るとは、いくら子供とはいえ無謀きわまる、とハニガンは唖然としてしまうが、息子に危機が迫っていると知ったマルコの母親は衝撃のあまり目を回して倒れてしまい、慌てて駆け寄ってきた村の主婦仲間に介抱される。
「ふうむ」
リュウケイビッチ家の後継者が失踪したと聞かされても大柄な老人はさほど動じた様子もなく、
「いなくなった、というが、洞窟の入口はわしらが見張っていたから、そこから出られたとは思えんが」
パドルの疑問を聞いて、「ああ、それはですね」とハニガンは頷きながら、
「この洞窟にはいくつか外へと抜ける小さな穴があるので、そこから出たんじゃないでしょうか? ぼくら大人には無理でも、子供なら通り抜けられるかもしれません」
悪ガキのマルコは以前から洞窟の中で遊んで、そういった秘密の通り道も知っていたかもしれない、と村長は考えた。村の大人たちは「危ないからやめろ」と注意していたのだが、「やるな」と言われたことほどやりたがるのがマルコの性格だった。
「なるほど。そもそもこの洞窟自体、ずっと奥まで行くと隣村の近くまでつながっているという話でしたな」
事情を飲み込めたらしいパドルはしばし目を閉じてから、「いたしかたあるまい」とつぶやきながら立ち上がった。
「そういうことなら、迎えに行かねばならん。わが家の御曹司が危うくなりかけているのを家宰として見過ごすわけにはいかない」
それに、と縦に長い皺だらけの顔にかすかに笑みを浮かべて、
「いたずら小僧たちの尻をひっぱたいてやらねばならんしな」
重みを伴った渋い声で語られたユーモアに、子供たちが行方をくらました知らせに不安を感じていた人々の心はいくらか落ち着きを取り戻す。
「お願いします! どうか、どうか、うちの子を連れ戻してください!」
目を覚ましたマルコの母親に懇願されたパドル老人は、
「奥さん、安心しなさい。あんたの息子はジャロ様の友人でもある。決して無下にはせんよ」
優しくなだめてから、外へと出ていこうとする。
(急がねばなるまい)
かつてドラクル・リュウケイビッチの腹心としてともに戦場で生きてきた彼の直感が、戦いが迫っているのを予期していた。間に合うかどうかギリギリの所だろう。一刻の猶予もならない、と足を踏み出そうとした老人を、
「待ってください!」
少女の声が呼び止める。振り返ると、村の娘モニカがすぐそばまで近づいていた。
「どうかしたのか?」
パドルに問いかけられた少女は一瞬ためらってから、
「わたしも連れて行ってください!」
頭を下げて頼み込んだ。
「モニカ? あなた何を言ってるの?」
「馬鹿なことを言ってパドルさんを困らせるんじゃない」
モニカの姉アンナと父ベルトランが仰天して大声を上げるが、
「何か村に行かねばならぬ理由があるのか?」
パドルは落ち着きを崩さずに問い質す。すると、
「自分でもよくわからないけど、でも、行かなきゃいけない、って気がするんです」
明るい髪の娘は震える声で返事をしたが、ほんの少しだけ考えをぼかしたことを自覚していた。
(あいつを抛っておけない)
避難してからというもの、夜の間中ずっとそう思っていた。たったひとりで村を守ろうとしている変わり者の根暗な「よそもの」の男、自分の命を大事にしようとしないどうしようもない馬鹿、そんなやつなんか無視してしまえばいい、というのはわかっていたが、虫歯につい舌先で触れてしまうように、どうしても気になってしまうのだ。彼女はマルコやジャロよりは大人なので、村に戻る危険性はよくわかっていて、怖くて仕方がなかった。だが、ここで何もしなければ一生後悔し続ける、というのもわかっていた。その思いに突き動かされたからこそ、モニカはパドルに無茶な頼みごとをしていたのである。
「どうしてよくわからないのに戻ろうとするの?」
「でも、だって」
アンナとモニカの姉妹が言い争っている一方で、「ふうむ」とパドルは考え込む。少女の説明(にもなっていないが)にもちろん納得できたわけではないが、彼女の切迫した様子と、何よりも瞳の中に浮かんだ決然たるものが老人に亡きあるじの言葉を思い出させていた。
「パドルよ、『これだ』とひとたび思い詰めたときの
いつだったか、ドラクル・リュウケイビッチがいかにも楽しそうに話しかけてきたのが脳裏に鮮明に甦る。名うてのプレイボーイとして知られた「モクジュの邪龍」の言葉に、真面目の権化とも言える堅物の部下は曖昧な返事しかできなかったのだが、
「まあ、おまえにもいずれわかるさ。気づいていないようだが、おまえは案外もてるのだぞ。早くかみさんなり愛人のひとりでも作るといい」
尊敬する主人の言いつけでも従えないことはあって、結局パドルはこの年まで独身を貫き(浮いた話はいくつかないではなかった)、女性のなんたるかを知らぬまま年齢を重ねてきたのだが、
(そういうことだったのか)
人生の最終盤になってようやくドラクルの話が理解できたような気がした。モニカは確かまだ14歳くらいのはずだったが、それでも女は女なのだ、と思わざるを得ず、何らかの「正しさ」に近づけたような気分になっていた。
「わかった。おまえを連れて行くことにしよう」
「パドルさん、そんな」
思いがけない展開に焦る父親に向かって、
「のう、ベルトラン。この娘はわしが断ったとしても、おまえやアンナが止めたところで、この洞窟を飛び出すに決まっておる。それなら、わしがついていてやった方がいいのではないか?」
実直一辺倒の男は言葉を失い、
「お父さん、お姉ちゃん、わがままを言ってごめんなさい。でも、どうしても行きたいの」
お願い、と頼み込んできたモニカに、アンナは肩をすくめて、
「パドルさんのご迷惑にならないようにね。それから、危なくなったらすぐに戻ってきなさい」
困り顔をしながらも優しい声をかけた。彼女もまた妹の決意をなんとなく感じ取っていたのかもしれない。「うん、わかった」とモニカは頷きながら父の方を見たが、顔を覆って蹲るその姿に胸の痛みを覚えた。自分のやっていることは決して正しくない、というのはわかっていた。しかし、間違っていても誰かを傷つけたとしても何かをやらなければならない瞬間が人生には何度かあって、この娘にとって今がそのときなのだろう。
「では、参ろうか」
「はい」
連れ立って外へと向かおうとした2人に、
「パドルさん、お話があります!」
今度はハニガンが声をかけた。あまりのんびりしていられないのだが、と冷静沈着な老爺もさすがに苛立ちを滲ませながら、
「おまえも村に戻りたいのか?」
と老人が訊ねると、
「いえ、そうではないのですが」
村長は首を横に振ってから、
「ぼくとしてもやるべきことができたんです」
真剣なまなざしで語り出した。かくして、2人の少年の小さな行動が発した波紋は次第に大きなものとなり、いくつもの運命に多かれ少なかれ変動を与えようとしていた。
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