第137話 暗夜の葬送曲(その5)
これまで書いてきた通り、ヤンギ・ヒジャはとても温厚な人物だったのだが、ただ一度だけカリーは師匠にきつく怒られたことがあった。それは彼がデビューしてまだ間もない13歳の頃、サタドの一地方を治める藩主の宴に招かれたときの出来事だ。
「うむ。実に見事だ。まだ若いのに素晴らしい技量である」
褒めてつかわす、と多くの芸術家のパトロンとして知られる藩主は演奏を終えた少年詩人を絶賛した。権力者は年齢を気にしてか、顔に頬紅を塗り髪を黒く染めていたが、若作りしようとする努力はかえって彼の老いを強調する結果になってしまっていた。
「ありがとうございます」
ぺこり、とカリーは涼しげな表情で頭を下げる。褒められるのが当たり前になっていたので喜ぶ気持ちは起こらなかったし、若い歌うたいはオーディエンスの反応よりもおのれとの戦いを重視していた。拍手やおひねりよりも技術をもっと高めることに関心が向いていて、
「あの頃のわたしはまだまだ未熟で、自分のことしか頭になかったのですよ。とはいえ、エゴイズムがなければ成長もないので、難しいところなんですけどね」
後の「楽神」はそのように新人時代を懐かしむことになるのだが、今から紹介するエピソードも、そんな彼の若さがひきおこした過ち、と呼べるものなのかもしれない。
「殿様」
いきなり聞こえてきた声に、
(あの人か)
と目の見えない少年は考える。自分の前に歌を披露したこの藩主お抱えの吟遊詩人だ。実に伸びやかな歌声をしていて、なかなかの腕前だった、とカリーは高く評価したつもりだったが、無意識のうちに上から見ていることに気づいていなかった。とはいえ、彼はそれまで自らを超えるミュージシャンに出会ったことがなく、その後の生涯でも出会えなかったのだから(彼に肩を並べた存在もアゲハというマズカの歌姫など数える程しかいない)、傲慢だと責めるわけにもいかなかったのだが。
「不躾なお願いではありますが、カリー氏と共演させてもらいたいのですが」
おお、と宴の参加者からどよめきが起こり、
「それはいい。ぜひやってくれ」
藩主も腰を浮かして喜んだ。どちらも優れた詩人だ。素晴らしいものが見られるに違いない、と大いに期待する。
「あなたも嫌だとは言いませんよね?」
先輩の歌い手の声に棘が含まれているのを、少年の優れた聴覚は感じ取って、「なんだか憎まれてるみたいだ」とためらいを覚えてしまったが、
(どうにかなるだろう)
結局は応じることにした。断るだけの理由がなかったし、他の音楽家とのセッションも何度か経験していたので、みじめな失敗をせずに済むだろう、と楽観的に構えていた。師匠がいれば何か言ってくれたかもしれないが、久々に会った知り合いと話をしているらしく、今は席を外していた。ともあれ、2人の演奏が始まったのだが、
(あれ?)
すぐにカリーは異変に気付いた。これまで一緒に舞台に立った楽師はみんな「いいものを作り上げよう」という共通した意志のもとで、呼吸を合わせて調和を図ろうとしていたのに、今共演している若い詩人(といっても20代で、カリーよりはだいぶ年上だったが)はそうではなく、少年が近づこうとすると離れていき、それでも追いつこうとすると突き放されてしまう、という奇妙なよそよそしさが感じられたからだ。それもそのはずで、
(叩き潰してやる)
先輩ミュージシャンはカリーに対して敵意100%で共演に臨んでいた。この新人が登場するまで「天才」の名をほしいままにしていたのに、今となっては誰もそのように呼ぶことはなくなり、この宴でもカリーの方がずっと注目を集めていて、主人である藩主までも高く買っているのは明らかだった。ひょっとすると自分に代わって専属に雇うつもりかもしれない、と思うと気が気ではなかった。どうにかして恥をかかせてやりたい、という一心の青年には、演奏を成功させようとする気持ちなどなく、失敗すればカリーだけでなく自らのキャリアにも傷がつく、などという発想はまるでなかった。誤解のないように付け加えておくと、この若き歌うたいも間違いなく素晴らしい才能を持っていたのだが、そのような秀才が冷静に判断できなくなってしまうほど、嫉妬という情念は恐ろしいものなのかもしれなかった。「音楽は人を幸せにするものだ」と「楽聖」から教え込まれた少年は悪意を込めて楽器を奏でる相手に戸惑っていたが、
(これはこれで面白い)
合わせるつもりのない相手と一緒に歌う、という初めての状況をいつしか楽しんでいた。拳の代わりに音符でしばらくやり合って、相手の力を見定めると、強引にのしかかってくる年長の詩人の歌声を軽くいなし、6つの弦を巧みに操って逆に圧倒していく。両者の能力には地を這う蛇と天空を行く燕ほどの隔たりがあるのは観衆の目にも明らかで、天才歌手の存在感が宴の会場いっぱいに広がっていくのに対し、「元天才」の声は次第に弱まっていき、精一杯歌っているつもりなのに自分の耳でも聞き取れないほどになってしまう。
(もっと、もっとだ)
歌を用いた喧嘩に勝利してもカリーは満足できなかった。初めて経験する闘争によって脳髄が興奮していたのかも知れない。ぼくの実力はこんなものじゃない。全てを出し切ってやる。そう考えた瞬間、小さな歌うたいをつなぎとめていた何かが音を立ててちぎれ、目の見えない少年の視界がまばゆい光に包まれ、彼の小さな身体が炸裂し、熱を伴わない爆風が広い部屋にいる全ての人間を直撃した。
「いかん!」
別室で旧知の人物と語らっていたヤンギ・ヒジャがただならぬ気配を感じて、会場に舞い戻ると、
「おお。なんということだ」
「楽聖」の目に映ったのは、藩主も共演した詩人も観客も全員気を失って倒れている中で、ただひとり歌い続けている弟子の姿だった。失神した人は誰もが満面の笑みを浮かべながら口から泡を吹いていて、身体を地上に置いて魂だけ天国へ上ったようにも思われた。そして、カリーの顔は赤く染まり、おのれの歌声に酔い痴れているのは明らかだ。完全に暴走していた。
(わしの監督不行届だ)
師匠としての至らなさを痛感しながら、カリーの小さな肩に手を置くと、
「あっ、先生?」
振り向いた少年はしばし呆然としたのち我に返る。熱演の汗にまみれたその表情は何処かぼんやりしていて、自分が何をしたのかまるでわかっていないように見えた。
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