第105話 ペンと紙の戦争準備(その2)
もう夜更けに差し掛かっていたが、「ソレイユ」の店内はそれなりに混んでいた。その片隅でユリ・エドガーがアイスカフェオレをストローで飲んでいると、どさっ、と目の前の丸テーブルに何かが落ちてきた。2時間ほど前にウッディ・ワードに渡した茶封筒だ。
「来てくれたんですか」
そう言いながら顔を上げると、
「まあまあよく書けていたからな。つまらないネタだったら無視してもよかったんだが」
元上司である腕利きの記者がむっつりした顔をして立っていた。一応ジャケットは羽織っていたが、無精髭はそのままのむさくるしい姿だった。
「ここに来るために、取材をキャンセルしなけりゃいけなくなった」
「それはすみません」
「仕方ないさ。おれの興味はこっちの方に向かっちまってる」
原稿が収められた封筒をじろりと見てから、カウンターに向かって「おねえさん、ホットを頼む」と野太い声で注文して、大きな音を立てながら少女記者の対面に腰掛けた。がさつ、という言葉を体現するかのような中年男の振舞いにユリは呆れつつも笑ってしまうが、
「結構時間がかかりましたけど、もしかして今まで確認してたんですか?」
と訊ねると、
「もしかしなくてもそうだ。裏を取るのは
「ええ、それはもういい勉強になりました」
素直に頭を下げたかつての部下の姿に「ふん」と息を吐いてから、
「この原稿もちゃんと裏を取って書いているのはわかったが、自分なりに念のため調べておきたかったのさ。石橋はいくら叩こうが壊れやしないもんだ」
懐から煙草を取り出したワードに、
「ここ禁煙ですよ」
とユリが注意するが、
「火をつけなきゃ別に構わんだろう」
まるで取り合わずに口にくわえた。眼鏡の娘に時代遅れの遺物のように思われていると感じながらも、
「ただ、本当のことを言えば、そうするまでもなくこの原稿は正しい、というのはわかってたんだけどな」
「はい?」
角ばった顔の男の口から意外な言葉が出てユリは驚く。
「数日前にアマカリー子爵が奥方を連れてひそかに行方をくらませた、という話は前もって知っていたんだ。あの家は多額の借金を抱えていたから夜逃げしたんだろう、という噂だったが」
テーブルの上の封筒をぽんぽんと叩いて、
「そうじゃない、というのがこの原稿を読んでわかった。それに辻褄が合う、とも思ったのさ。貴族というのは図太くて、平民から借りた金を踏み倒しても平然としている連中ばかりだから、子爵が借金が原因で逃亡した、というのは正直腑に落ちなかったんだ。他にもっと深刻な理由があったんじゃないか、というのが、おれの勘だったが」
「じゃあ、当たりましたね」
さすがですね、と少女記者の顔には書いてあって、ワードは照れ臭くなってしまうが、
「当たったとしても遠すぎる、ってもんだ。まさか、十数年前に失踪したアマカリー家の令嬢が帰ってきて、自分を殺そうとした叔父夫婦を告発した、なんて誰も想像できるもんか」
そこへコーヒーが運ばれてきて、ワードはウェイトレスにチップを渡して下がらせた。「デイリーアステラ」社会部部長はしばらく黙り込んでから、
「とんでもない特ダネだ」
ぼそっとつぶやくと、「そうでしょうかね」と原稿を書いた本人は自信なさげに答えた。手柄を立てた喜びよりも、おのれの力量を越えたスクープに接してしまったことを恐れる気持ちの方が大きいのかもしれない、と先輩記者は思いながら、
「ただ、うちの紙面に載せるにあたって確認しないといけないことがある」
「なんでしょうか?」
訊ねてきたユリに向かって、
「おまえ、この原稿を書くにあたって『新たな証言を得た』って言ってたよな?」
「はい。言いましたけど」
火のついていない煙草を口元でぶらぶら揺らしながら、
「誰から話を聞いたのか、一応教えてくれ。もちろん、他の誰にも言ったりはしない。ネタ元の秘密を守るのも、ブンヤの基本中の基本だ」
ニュースの情報源、いわゆる「ネタ元」をウッディ・ワードは確認しようとしていた。といっても、ユリから特ダネを横取りしようとしているわけではなく、いざというときに彼女を守れるように配慮してくれているのだ、というのがわかったので少女ライターも悪いようには思わなかった。元上司は口の悪い頑固者だが、心が真直ぐすぎるがゆえにそのようにならざるを得なかった、というのをなんとなく理解していたのだ。だいぶ年の離れたおじさんを微笑ましく思っていると、
「何ニヤニヤしてるんだ、もんきち」
小さな四角い目で睨まれたので、「ああ、いえいえ」とごまかしてから、
「それならちょうどよかった」
と言いながらストローに口を付けた。
「どういうことだ?」
甘い飲み物で口が滑らかになるのを感じながら、
「わたしに話をしてくれた人が、今からここに来るんですよ」
「なんだと?」
「だから、話を直接訊いたらいいんじゃないですか?」
思いがけない成り行きにワードは腕を組んでから、
「もんきち、おまえ、おれを嵌めやがったな」
「はい?」
いきなり凄まれてびっくりするユリ・エドガー。
「おれをこの店まで連れ出そうと狙ってたんだろう? こんなお宝を目の前にぶら下げたらおれが食らいつくに違いない、って考えたんだろう? ったく、人をダボハゼみたいに考えやがって」
実際食らいついてるじゃん、とユリは噴き出しそうになるが、
「仕組んだのはわたしじゃありません」
涼しい顔を取り繕って答える。
「なに?」
「わたしは部長をここまで連れてくるように言われただけです」
どういうことだ、と混乱する記者の耳に、
「あら、ちゃんとやってくれたみたいね」
女の声が聞こえた。ややハスキーだが、声だけでも美しい人だというのがわかる。
「ええ、なんとか」
少女が頷くのを見てから振り向くと、
「あなたとは、はじめまして、かしらね。ウッディ・ワードさん」
アステラきっての占い師リブ・テンヴィーが艶やかな笑顔を見せていた。
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