第102話 風の吹く丘で
かつて暮らした屋敷を見下ろす小高い丘の上にリヒャルト・アマカリーの墓は建っていた。没後10数年を経過したが、まるで汚れが見られないのは、ゲオルグが朝夕に手入れを欠かしていないからだという。小さな白い野花が辺りをささやかながら飾り立てているのは、多くの人から慕われた先代子爵の人柄をそのまま表しているように思われた。
「ここに来ると分かっていたら、花束か酒の1本でも持ってきたんですが」
ワトキンスがぼやく。かつて芸術を愛し語り合った同志を悼むために、かぶっていた帽子を外していた。
「それはまたの機会でいいんじゃないかしら」
同じく帽子を脱いだリブ・テンヴィーにささやかれて「それもそうか」と弁護士は思い直す。新しく当主になった彼女からの依頼で、アマカリー家の借金を清算するために働くことになっていて、これから何度となくこの屋敷を訪れるはずだった。そして、若き女主人は祖父の墓前に進み出て、
「おじいさまからのメッセージ、しかと受け取ったわ」
左手に持ったゲオルグに宛てた手紙を掲げてから、
「これもね」
右手で首に掛かったチェーンを持ち上げると、ぶらさがっていた「煌炎の真紅石」が揺れた。家宝が孫娘に受け継がれたのを、計略を仕組んだリヒャルト自身がどう思っているのかを知る術はないが、悪いようには思っていないはずだ、とセドリックもゲオルグもワトキンスも信じていた。
「ごめんなさい。もっと早く来るべきだったのに」
白い墓標に掌を当ててリブは俯いた。固く冷たい感触が祖父の不在を改めて思い出させて胸が詰まりそうになる。暮れかけた空を小鳥の群れが飛んでいくのをセドリックが見上げていると、
「あの方にはもっと長生きしてもらいたかったものですが」
ワトキンスがつぶやき、伯爵も使用人も同じ感想を抱く。最愛の孫娘が美しく賢く成長して望み通りに後継者となったのだ、喜ばないはずがない、と思っていると、
「リヒャルト氏が生きておられたら、あなたの妹さんにも大変感謝されたはずですよ、伯爵様」
弁護士が意外なことを言い出したので、セドリックは驚き、祖父に祈りを捧げていたリブも思わず振り向いていた。
「わたしの妹、というと、セイジアのことか?」
「はい。アステラ王国天馬騎士団長セイジア・タリウス様です。今はもうお辞めになられたのですが、どういうわけか、わたしの中では今でもあの人が騎士団長のような気がするのですが」
ひょうきんな外見の中年男性の意見はアステラの国民感情を代弁したものでもあったが、
「わたしとリヒャルト氏の間では、概ね芸術の話題を持ち出していたものですが、時々戦争の話をされることがありまして。法律ならともかく
しばらく凪いでいた風が再び吹き始めた。
「『わしの眼の黒いうちになんとしてでもこの戦争を終わらせる。孫に苦しい思いをさせるわけにはいかん』と何度も仰ってました。リヒャルト氏は公の場ではいつも勇ましいことを言われてましたから、必勝を宣言しているのかと思っていたのですが、『それではいつまで経っても終わらせられん。お互いに歩み寄る必要がある』と仰ったので驚いてしまいまして。あの当時、敵との和平を考えている人なんていませんでしたから。いたとしても、臆病者だと蔑まれて終わりだったでしょうね」
おそらくはあれがリヒャルト氏の真意だったのでしょう、とワトキンスはつぶやいてから、
「正直、そのときはわたしもピンと来なかったのですが、それからあの方が亡くなられてだいぶ経ってから、セイジア様が戦争を終わらせたときにようやくわかったんです。戦いを続けること以上に、終わらせる方が余程勇気が要ることだったのだ、と。だからこそ、リヒャルト氏には生きていてほしかったんです。あの方の望んでいた平和な世の中をぜひとも見てほしかった」
弁護士が声を詰まらせる一方で、リブとセドリックは顔を見合わせていた。彼女たちはワトキンスが知らないことを知っていたからだ。
(そういうことだったのか)
セドリックは静かに思う。高潔な政治家として知られていたリヒャルト・アマカリーがモクジュと内通していた事実を今まで飲み込むことができなかったのだが、ワトキンスの話を聞いてようやく腑に落ちた気分になっていた。おそらく、先代アマカリー子爵は秘密裏に敵国と交渉をしていたのだろう。モクジュ側にも平和を望む人間がいて、彼らとともに終戦へと至る道筋を探り当てようとしていたのではないだろうか。そして、そう考えると、リヒャルトが孫娘に幻滅された一件についても説明がつく気がした。彼の連絡によって、モクジュ国内に潜入した天馬騎士団は撃退されたわけだが、もし仮に騎士たちによって諸侯国連邦のVIPが暗殺され、重要施設が破壊されていたとしたらどうなっていたか。モクジュは国中を挙げて復讐の炎に燃え、アステラを決して許すことなく、両国はさらなる泥沼へと沈み込んでいくことになったのは、火を見るよりも明らかだ。リヒャルト・アマカリーも作戦を止めようとしたはずだが、それが無理だとわかったときに、騎士団を犠牲にして平和にたどり着く可能性を残そうとしたのだろう。大の虫を生かして小の虫を殺す、政治家ならば当然有り得る判断だ、と自らも多少ながら
(とはいうものの)
幼いリボン・アマカリーがそれを理解できなくても仕方がないと思えたし、成長した今のリブ・テンヴィーがそれを受け入れるかはわからなかった。大切な人が亡くなったときに「必要な犠牲だった」と言われたところでとても受け入れられないのが普通の人間の感性であり、そこを見落としていたのはリヒャルトの落ち度なのだ。しかし、それでも自分の考えを伝えよう、とセドリックは恋人へと近づく。
「なあ、リブ」
表情が強張っているところを見ると、彼女も真相に気付いているのだろう。
「おじいさんを許してやってくれないか」
ゲオルグとワトキンスに聞こえないように囁いた。彼らに故人の過ちをわざわざ伝える必要はない、と思ったのだ。
「彼のやったことは間違いなく罪だ。でも、それで言えば、彼は罰を受けている、とも言えるんだ。この世で一番愛している孫に嫌われたまま死んでいったのだからね」
びく、とリブの背中が震えたのは、彼女もまた祖父との最後を大いに悔やんでいるからなのだろう。
「わたしはリヒャルト氏のためでなく、きみのために言っているんだ。誰かを許せないままでいると、人の心は捻じ曲がってしまって行くべき道を進めなくなるんだ。それがわたしにはよくわかる」
妹をずっと憎んできた青年は自嘲の笑みをこぼしてから、
「だから、リブ、おじいさんを許してやってくれ。そして、自分のことも悪く思わないでくれ。あのとき、きみがやったことは正しかったんだ。きみが気づかなければ、おじいさんはもっとひどいことをしてしまっていたかもしれない。もうこれ以上自分を責めないでくれ」
「わかってる」
祖父が眠る墓を見つめながらリブは答える。
「それはわたしが一番よくわかってる」
涙声になっていた。祖父の行為の罪深さは消えず、彼を死に追いやった自らもまた罪深い、と彼女は考える。しかしそれでも、
(わたしはおじいさまを愛している)
その思いこそが何より強く、決して消えないものと信じていた。ならば、その思いのままに生きていくだけだ。命のある限り愛し続けていくだけだ、とリブは覚悟を決める。罪もまた遺産のひとつとして受け継ぎ、故人に代わって償いをしていけばいい。人々の悲しみを癒やし、幸せへと至る手助けをしていこう。祖父も生きていればそうしたはずで、孫娘が自分の役割を代わって果たすことを望んでいるような気もした。
「ねえ、セディ」
「ん、なんだい?」
涙に濡れた紫の瞳でセドリックを見ながらリブは微笑む。
「知ってる? わたし、この世の中でおじいさまが一番大好きなのよ」
やれやれ、と伯爵は溜息をついてから、
「わたしよりも好きなのかい?」
恋人をその胸に抱きしめた。
「同じくらいかしらね。あと、セイのことも大好きよ」
と言われて、
(まあ、今のところはそうしておこうか)
彼女を抱く腕に力を込める。妹と同率というのは癪だが、単独首位はいずれ奪回すればいい。それよりも何よりも、リブが長年囚われていた呪いから解放されたことを今は喜びたかった。
「あっ」
風がひときわ強く吹いてリブは顔を上げる。夏の夕焼け空に雲が湧き立って見えたのを美しく思っていると、
「きみのおじいさんも何処かで見ていてくれてるさ」
同じ空を眺めていた伯爵に耳元でささやかれた。「そうだといいんだけど」と思いながらリブは彼の胸に頭を預け、さわやかな風の吹くままに、若い2人は丘の上でしばらく身体を寄せ合っていた。
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