第94話 リボン・アマカリーの帰還(その5)
リヒャルト・アマカリーが孫娘に遺したメッセージは次のようなものだ、とセドリックは聞かされていた。
「我が最愛の孫リボンへ
奇妙な書き出しになるが、この手紙が役に立たないことを祈っている。おまえが幸福に暮らしているのであれば、わしの心配は無用に終わる。だが、残念ながらそうはならないだろう。だからこそ、おまえにこの手紙を書き残しているわけなのだが。
都にいるワトキンスという男に会いなさい。そこにおまえが生きるための力が用意されている。わしがおまえにしてやれるのはそれくらいだが、おまえのような賢い娘ならそれだけで十分だと信じる。誰であっても生きてゆくのは厳しいが、上手くやることだ。
わしは恥の多い人生を送ってきて、多くの悪行を積み重ねてきた。わずかに施した善行もいずれは跡形もなく消え去ってしまうだろう。しかし、それでも、決して滅びないただひとつのものがあるとすれば、リボン、おまえを愛する思い、それだけだ。わしがおまえを心から愛していること、それだけは信じてほしい。このみじめな年寄りを許してほしい。そんなことを言える資格などないのはわかっているが、それしか言うことができないのだ。本当にすまなかった。そして、愛しているよ、リボン。
祖父より」
遺言というよりは恋文だ、と詳しい内容を知った伯爵は感じていた。アステラの政界にその人ありと謳われた権力者が孫娘に切々と愛を説き許しを乞うその様は、哀れでもあり感動的でもあった。後でセドリックも手紙を実際に見てみたが、秘められたメッセージがわからなくても、便箋に書かれた文字が時折歪んでいるのを見ると、死に瀕した老人が命の限りを尽くして真情を伝えようとしているのがありありと感じられて、胸を打たれずにはいられなかった。他人の彼でさえ感動したのだから、手紙を読んだリブが泣き崩れたのも無理はない、という気がした。
(わたしの方こそごめんなさい、おじいさま)
かつてのアマカリー家の令嬢は幼き日の自らの狭量さをひたすら後悔していた。国を売り渡したに等しい祖父の振舞いはとても容認できたものではないが、しかしそれでもそんな行為に及んだ理由を聞いておくべきだった、一度の過ちだけで全てを否定してはいけなかった、と強く思っていた。だが、それと同時に、
(わたしもあなたを心から愛しているわ)
リヒャルトの愛情を知り、自分も彼を今でも愛していることを改めて認識して、胸の内側が熱くなるのを感じていた。想いは生と死の境を越えて通じ合うことを、つい昨日みた夢のおかげで彼女は信じられるようになっていた。おじいさまは今もきっと見てくれている、と思いたかった。そして今、占い師の代わりに中年男がアマカリー子爵に事情を説明しようとしていた。
「初めまして。ワトキンスという者です」
どうぞよろしく、と言いながら、頭にかぶった山高帽を軽く持ち上げてお辞儀すると、
「わたしは都で弁護士をしているのですが」
「弁護士だと?」
ロベルト・アマカリーが目を見開く。子爵家には顧問弁護士がいて、先代も法的な問題は一任していたはずだった。
「ああ、いえいえ、リヒャルト氏と知り合ったのは仕事ではなく個人的な付き合いからです」
鼻眼鏡にちょび髭のユーモラスな顔つきに似合わず冷静な男はさらに続けて、
「だいぶ前になりますが、都の美術館の展覧会に行ったところ、そこでたまたまあの方と居合わせまして、話をしているうちにわたしも彼も水彩画を描いているのがわかりまして、それで意気投合したわけです」
つまり、趣味を接点にした交際、というわけらしい。
「そのときは、あの方が貴族だとも有力な政治家だとも存じ上げなかったので、しがない平民のわたしは後から知って震え上がったのですが、『そんなことは気にしなくていい。お互い芸術を愛する者同士ではないか』と言われましてね。全く偉ぶらない態度に感動しまして、それ以降親しく付き合わせてもらったものです」
おじいさまらしい、とリブの唇に寂しげな笑みが浮かぶ。屋敷でも召使に声を荒げたところなど見たことがない、弱い立場の人間を思いやれる優しい祖父の姿を懐かしく思い返していた。
「まあ、絵描きとしてのセンスがない、という以外は実に尊敬できる方だったのですが、お亡くなりになる半年前でしたか、わたしの事務所までいきなりひとりでやって来られて『折り入って頼みがある』と言ってきたので驚いていたら、『家の資産を売却するのを任せたい』と頼まれたのでさらに驚いてしまいました」
子爵夫妻の顔面が紙のように白くなる。先代の遺産が彼らの想定以上に少なかった理由が明らかになろうとしているのを察したのだ。
「最初はお断りしました。わたしは平民専門で貴族を相手にはしてませんでしたし、ただ売却するだけでなく極秘裏に進めたい、とのお話でしたから、いささか荷が重いと感じたんです」
ですが、とワトキンスは溜息とともに笑みをこぼして、
「『きみは金融に強いと聞いている。きみを措いて適任者はいない』とまで言われては断れなくて。もしかすると、最初からそれを狙ってわたしに近づいたのかな、と思って、さすがは政治家だけあってとんだタヌキだ、と呆れるというか感心したものですが」
おっと失礼、と丸々した右手で口をおさえてから、
「後でご本人にも直接訊いてみたのですが、『それは誤解だ』と大笑いされてしまいました。『付き合っているうちにきみという人間が信頼できるとわかったからだ』と言われまして、『大事な孫娘のためにやっていることだ。秘密を守れる人間でないと任せられない』とはっきりと仰っていました」
「孫娘ですって?」
子爵夫人エレナが叫ぶと、
「まさしくその通りで。お孫さんのリボンさん、でしたか、その方の将来が心配なので十分な財産を残しておいてやりたい、というお考えのようでした」
それでですね、とワトキンスは小さく咳払いをして、
「リヒャルト氏の指示通りに資産を売却し、それと同時にアマカリー家の銀行口座からも資金を別の場所に移動させて、ようやく全ての作業が終わったその日に、あの方がまた事務所まで来られまして、『いずれ孫娘がきみの許を訪ねてきたら、財産を全て渡してほしい』と頼まれたんです。そしてもうひとつ、『わしに何かあったとしても家に報告する必要はないし、きみが自分から動く必要はない』と付け加えられました。つまり、余計な真似はするな、と釘を刺されたわけです」
ピンクの外壁の屋敷の周りにしばしの静寂が流れ、
「それからまもなく、リヒャルト氏はお亡くなりになり、彼が遺産を残していたお孫さんも行方不明になられてしまって、あの方の努力が無駄になってしまったのか、渡す相手のない大金を守らなくてはならないのか、とこの10年以上、ずっと苦しい思いをしていたのですが」
どうやらどうではなかったようです、とワトキンスはリブの方を振り返る。長い辛苦から解放された男の顔が彼女とセドリックの眼にはしっかりと見えた。
「ちょっと待て」
子爵が怒鳴った。
「なんでございましょう?」
きょとん、とした表情を浮かべた平民専門の弁護士に向かって、
「ワトキンス、だったか? おまえの言い分を一応信じることにしよう」
どうにか落ち着こうとしているおかげで、かえって男の内心の焦燥ぶりが他人にはよく目についてしまっていた。
(父上はわたしを信用されていなかった)
そう思わざるを得ない。息子には孫娘を任せきれない、と思ったからこそ父は秘密裏に財産を処分して、彼女に与えようとしていたのだ。だが、ロベルト・アマカリーは自分が文句を言えた立場ではないことを自覚せざるを得なかった。彼は実際に姪を陥れて子爵の地位を強奪したのだ。父親の心配はあらぬ疑いではなかった、とその身をもって証明してしまっていたわけだが、今一番に気にするべきはそのことではなかった。
「父上はおまえに、孫が取りに来るまで何もするな、誰にも渡すな、と言われたんだな?」
「はい。その通りです」
ワトキンスが短い首を縦に振ると、
「では、これは一体どういうことなんだ?」
子爵が指さした先には、地面に置かれた箱がひとつあった。その中には金貨がぎっしり詰め込まれていて、今またコインが1枚こぼれ落ちた。
「どうして、今頃になって、この箱をここまで持ってきた?」
問いかけながら、ロベルトは真相に近づきつつあるのを感じていた。彼にとっては極めて都合の悪い事実が明るみに出ようとしている。そして、
「まさか、そんな」
一部始終を見守っていたゲオルグの身体が激しく震えていた。かつて執事だった男の視線の先では、占い師が表情を消してたたずんでいる。昨日タリウス家を訪れた際に覚えた胸騒ぎの正体はこれだったのか、と気が遠くなる思いを味わっていた。
「いや、わたしはリヒャルト氏の言いつけ通りに動いたまでのことです」
子爵とその使用人たちの動揺をよそにワトキンスがきっぱりと言い切る。
「そこにいらっしゃる女性が、リボン・アマカリー嬢にほかならないからこそ、わたしは資産をお渡しすることにしたのです」
と言いながら、中年の弁護士はリブ・テンヴィーの方へともう一度振り返った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます