第72話 伯爵、愛を告げる(前編)
「これでわたしの話はおしまいよ」
失踪して以降の出来事を全て話し終えたリブ・テンヴィーは、ほっと一息つく。長い間口を動かしていたおかげで身体は当然重くなっていたが、いざ話をしてみると、自らの人生がいかに波乱に満ちたものであったかを認識させられて、精神的にも疲れ切っていた。今こうして生きていられるのが奇跡のようにも思えてくる。
「よく話してくれたね」
向かい合って座るセドリック・タリウスの表情も曇っていた。一人の美女の起伏に富みすぎた物語を聞いているだけで体力が削られたのも事実だったが、若い伯爵の顔が晴れない理由はそれだけではなかった。
「打ち明けてくれたことをきみには感謝しているが、中にはいくつか腹立たしい点もあった」
「あら。何かお気に召さないことでも?」
頬杖をついて興味深そうに見つめてくるリブに向かって「ああ、気に入らないね」とセドリックは言ってから、
「きみが各地で男どもからもてたという話、あれは聞いていて実に不快だった」
好意を寄せる女性が他の男性から言い寄られて気分のいい男などいるはずもない。だからこそ、青年は憤ったのだが、
「じゃあ、黙っておいた方がよかった?」
リブに訊き返されると、
「冗談じゃない。きみはわたしに隠し事をしようというのか?」
むきー、と歯ぎしりして怒る伯爵に「じゃあ、どうしろっていうのよ」と美女は呆れるしかない。とはいうものの、自分のためにハンサムな若者が嫉妬でやきもきしている姿はなかなか趣深いものがあったので、さほど腹は立たなかった。
「しかし、一番頭に来るのは」
セドリックは真剣なまなざしでリブを見つめて、
「きみがすぐにわたしに連絡を寄越さなかったことだ。生きていたのに、アステラに戻ってきたのに、どうして知らせてくれなかったんだ?」
金髪の青年の声にはまぎれもない悲愴感があって、はぐらかしようがなかった。
「ごめんなさい。でも、今更戻ったところであなたに迷惑がかかると思ったものだから」
「リボン・アマカリー。いや、リブ・テンヴィーと呼んだ方がいいのかな。いまやその名で暮らした時間の方が長いのだしな」
セドリックは背もたれに身体を預けながら「やれやれ」と言いたげにかぶりを振ると、
「きみはとても賢いが、一番肝心なことがわかっていない。きみのいない人生などわたしには有り得ない。きみがいてはじめて、わたしは幸福を得られるのだ」
物理法則を説明するかのような淡々とした口調で伯爵は愛する女性に思いを伝えた。セドリック・タリウスにとってリブ・テンヴィーという存在がいかにかけがえのないものであるか、十分に伝えきれていないのがもどかしかった。国家も神も真理も、彼女一人と比べれば取りに足らない塵芥のごときものでしかない。
「だが、それを責める資格はわたしにはない、とも思っている」
「えっ?」
驚くリブにセドリックは自らを嘲笑う笑みを浮かべ、
「何故なら、わたしは到底きみにふさわしい人間とは言えないのだからね。心のひねこびた俗物に成り果てたわたしを見て、さぞかしきみはがっかりしたことだと思う」
「いいえ。そんなことはないわ」
慌てて腰を浮かせる美女に、
「しかし、わたしはたった一人の妹を手ひどく扱ったのだぞ? きみにワインをかけられても仕方がないことをしたんだ」
あのことをまだ気にしていたのか、とリブは後悔で胸が疼くのを感じながら、
「そのことはもういいの。あのときはわたしも言い過ぎたし、やりすぎてしまったから」
その言葉は彼女の本心でもあった。久々に再会した幼馴染が優しさを失った刺々しい人柄に変貌していたのに衝撃を受けたのは間違いない。だが、
「それも無理もないことだ」
と後から思い直していた。リブの少女時代と性質は違えども、セドリックの少年時代もまた苛酷なものであったのに気づいたからだ。最愛の母を亡くし、思いを寄せる少女は消え、妹は家を飛び出した。大事な人たちを失いながら伯爵家を守ろうと懸命になっているうちに、真直ぐな心を失ってしまったとしても、それは責めるべきことではないはずなのだ。
「あなたも必死だったのよね」
リブのわずかな言葉に込められた思いやりを感じて、セドリックの中に巣食った空虚がいくらか充足したような気がした。だが、「まだ足りない」と思っていた。こんなものでは峡谷ほどに深い心の隙間を埋められはしない。満ち足りるための方法はただひとつしかない、とタリウス家の当主はよく知っていた。
「リブ・テンヴィー」
背筋を伸ばして若い伯爵は意を決して話し出す。
「わたしの思いを聞いてくれないか」
緊張で舌と唇が震えるのを感じたが、
「わたしと結婚してほしい。わたしの妻になってほしい」
絞り出すかのような声音でなんとか形にする。それを聞いたリブの顔は氷室に密閉された空気のように冷え切って、求婚された女性にふさわしいロマンチックな雰囲気はかけらも見当たらない。
「その話は前に聞いたわ」
「えっ?」
「子供の頃にも、あなた、わたしにそう言っていたのよ」
そういえばそうだった、とセドリックは噴き出してしまう。緑に輝く午後の芝生の上で、少女の柔らかな手の甲に口づけをした感触は今でも唇に残っている。
「ああ、確かにその通りだ。子供の頃からずっと、わたしはきみと結婚したい、一生を添い遂げたい、と思っていて、その考えは今でも変わっていない」
そう言ってから、「いや、そうじゃないな」と首を振って、
「変わっていない、というのは正しくない。昔よりも深くきみを愛している。わたしにとって今のきみは何よりも素敵な人なんだ」
リブ・テンヴィーの話を聞いたことで、自らの愛情がこの上なく強固なものに完成され、何があろうとも決して壊れることはないはずだ、とセドリック・タリウスは確信していた。
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