第70話 女占い師、再会する(その4)
リブ・テンヴィーとセイジア・タリウスが邂逅を果たして3か月が経ったある日のこと。
その日、リブはいつものように自宅兼仕事場にてお得意様の話を訊いていた。
「いい加減、わしの誘いに乗ってくれてもいいんじゃないか? あんたにとっても悪い話ではない」
ぐふふ、と頬の垂れ下がった顔に欲望丸出しでテーブルの向こうから話しかけてくるのは、アステラ王国有数の財産を誇る貴族だった。といっても元々は商人の家の生まれで、領地も爵位も金に飽かせて諸方面に工作した結果獲得したものだ。しかしながら、品位だけは身につかなかったようで、男は「成り上がり者」と上流中流下流全ての階級から満遍なく軽蔑されていたが、リブはそのことで彼に取り立てて悪感情を持ちはしなかった。一代にして階級をジャンプアップするだけの努力を重ねた、と考えることもできるわけで、それはそれで立派なのではないか。それよりも何よりも、
(いい加減離してくれないかしら)
右手を粘ついた掌で掴まれているのが不快で仕方がなかった。肘のあたりまで撫でまわされるたびに背筋が凍えそうになる。
「わしの愛人になれば、全てが思うがままだ」
あなた、鏡を見たことないの? と呆れてしまうが、「これはチャンスでもあるわ」とビジネスライクに考えてもいて、1回触られるたびに1枚の金貨がサービス料としてリブの脳内で計上されていた。料金は既に通常の3倍にまで達している。
とはいえ、醜男に言い寄られるストレスは人一倍の忍耐心を持つ占い師にとっても厳しいものがあったので、そろそろお帰り願おう、と適当にあしらう口実を考えようとしたそのとき、ばん! と大きな音を立てて玄関の扉が開いた。何事か、と家の主人と客が振り向いたときには、外から入ってきた何者かは既に2人の目の前まで来ていた。
(セイ!)
突然の闖入者の正体はセイジア・タリウスだ。鎧を身にまとい殺気立った顔をした少女騎士にいきなり接近されて、「ひい」と怯えた成り上がり者はだらしなく肥え太った全身を震わせる。そして、セイは無言のまま、木製のテーブルに思い切り両手をついた。だん! という音が部屋中に響き、男は椅子から転げ落ち、尻餅をついてしまう。でっぷりとついた贅肉もガードしてくれなかったのか、尾骶骨を強打した激痛にのたうちまわる貴族を、
「あら、大丈夫?」
とリブは腰を浮かして心配そうに見つめる。すると、
「わしはもう帰る」
あわわ、と狼狽の極みに達した肥満漢は全身を揺らしながら立ち上がると、卓上に金貨の詰まった革袋を置いて家を出て行ってしまう。何もそんなに怖がらなくても、とリブは呆れるが、心にやましいところがある人間には、若い騎士の強烈な生命力は耐えがたいものがあるのかもしれなかった。手にした袋はずしりと重く、予想以上の臨時収入が期待できたが、それはそれとして、
「お客さんを相手にしているときに、勝手に入ってきたらダメじゃない」
金髪の少女をたしなめることを忘れてはいなかった。厄介な客を追い払ってくれたのは有難いが、社会常識を教えるのは年長者の務めだ。それでも、セイは両手をテーブルについて俯いたまま何も答えない。
(また文句を言いに来たのかしら?)
前回の別れ際に怒っていた娘は、そのときの憤りをいまだに持続させたままなのだろうか、とアポなしの訪問の目的を測りかねていると、セイがぼそっと何かをつぶやいた。
「えっ? 何て言ったの?」
上手く聞き取れずに訊き返すと、答えよりも先に少女の輝かんばかりの笑顔が視界に飛び込んだ。そして、
「ありがとう!」
朗らかな声が心からの感謝を伝えてきた。
「えっ?」
「リブ・テンヴィー、きみのおかげで助かった。本当にありがとう」
市場での険悪なムードとは打って変わって、真夏の太陽のようにプラスの感情を発散させるセイに、
「えっ? えっ? えっ?」
少女のあまりの態度の変わりようを受け止めることができず、さすがの女占い師も戸惑わずにはいられなかった。
セイジア・タリウスがリブ・テンヴィーに感謝した理由を以下にまとめておく。
市場で女占い師と遭遇して間もなく、少女騎士は遠征へと出発した。天馬騎士団の副長として多くの騎士たちを統率する重圧を背負い、国境を出る前から彼女はいつになく緊張のし通しだったという。
王国を離れ、「空白地帯」に入った騎士団は、その日森の中を行軍していた。団長のオージン・スバルが一団の中央に位置し、副長のセイは先頭に立ち前途に異変がないかを確認していた。だが、事前に偵察に赴いた斥候の報告によれば、付近に敵の姿は確認できなかった、とのことなので、戦闘を生業とする男たち(女はセイ一人だけだ)の間にも何処か弛緩した空気が流れ、
(まだ大丈夫だろう)
金髪の騎士も楽観していた。ずっと気を張っていては疲れてしまい、いざというときに役に立たなくなる。力を抜くことも必要なのだ、とまだまだ戦士として発展途上にある娘が馬に揺られながら息をつこうとしたそのとき、
「きょっきょっきょっ」
小鳥のさえずりが耳に入ってきた。「のどかだな」といつもなら思うところだが、そのときだけは違い、頭から冷水を浴びせかけられたかのような気分になる。
「今、鳴いたのは何だ?」
平静を装いながらすぐそばを歩いている従者に訊ねると、
「ツグミでございましょうな」
欠伸をしつつも年嵩の男は答えた。「困ったことがあればこの者に頼れ」と副長に昇進した際にスバルが付けてくれた信頼できる人間だ。だから、答えに間違いはないのだろう。頭上を見上げると、一羽の鳥が枝から羽ばたいていくのが見えた。あれがさっき鳴いたツグミなのだろうか。
「どうなさいました?」
横を行く馬が突然止まったのに驚いて従者が訊ねると、さらに驚いたことに副長は馬上から降りていた。先頭の騎士が止まったので、必然的に全体の動きも止まり、「なんだなんだ」と困惑する声と「早く行けよ」と怒鳴る声も聞こえてきた。もちろん、それらはセイの耳にも当然届いているが、
(あいつの言ったことだ)
若い副長の脳裏には女占い師の言葉がリフレインしていた。
「つぐみが鳴いたら気を付けなさい」
リブ・テンヴィーという、美しくも奇妙な占い師が告げてきた謎のメッセージがそれ以来頭から離れなかったのを、今となっては認めざるを得なかった。何の根拠もないたわごとだ、と思ってしまいたかったが、そうではない、という思いも何故か同時に存在していた。だから、忘れることができず、今こうやって行動に移ってしまっている。しかし、彼女は天馬騎士団副長という立場にあり、個人の勝手な行動は全体に損害を及ぼす恐れがあった。軍隊にとってわずかな時間の遅れは致命的な失態につながりかねない、というのは騎士として未熟なセイも重々承知している。
「何をもたもたしてるんだ」
「また副長様の単独行動かよ」
背後から聞こえる文句が次第に大きくなってきた。まだ14歳の彼女が騎士団のナンバーツーとなったことに、団員たちの信頼が得られているとは言い難い。半分以上は不満を抱いている、というのがセイの体感だった。そんな状況にあって、占いを真に受けて馬から降りた、と知られれば、嘲笑の的になり誰も命令を聞いてはくれなくなるだろう。しかし、
(なるようになれ、だ)
ここに至ってセイジア・タリウスは完全に開き直った。八方塞がりの状況でこそ思い切り良く動ける、という彼女の美点がこの場でも発揮されようとしていた。もしも気のせいだったら、笑って謝ればいいではないか。屈辱は戦場で雪げば取り返しはつく。砂利道に転がっていた石ころをひとつ拾い上げる。
(確かにおかしい)
もはやリブの占いとは関係なく、セイの本能が異常を察知していた。馬同士がすれ違うことが出来ないほどに狭い道の両側は藪が茂っていて見通しがいいとは言えない。進行方向の右側をじっと見つめているうちに少女騎士の野生動物並みの勘が研ぎすまされていく。自分へと向けられた部下たちのわめき声ももはや気にならない。金髪の娘を中心に発せられた波動が周囲に拡散されていき、緑の中に隠されたものを探し求めていく。
「そこだ!」
セイは身を翻すと、それまで見ていたのとは逆方向の藪めがけて思い切り石を投げていた。後に「金色の戦乙女」として恐れられるようになる少女の投擲によって、ただの小石は恐るべき兵器へと変貌する。剛速球が直撃した藪が爆風で消し飛び、息を潜めて待ち伏せていた兵士たちの姿を暴き立て、
「ぎっ!」
そのうちのひとりの頭蓋骨が石ころで粉砕された。血液と脳漿を撒き散らしながら仰向けに倒れる男を、敵も味方も呆然と見つめて数瞬が経過したのち、
「敵襲だ!」
先に我に返った天馬騎士団のひとりが雄叫びを上げ、少し遅れて左右から十数人の伏兵が飛び出して挟み撃ちを仕掛けてきた。たちまち乱戦になるが、タイミングを逸した奇襲ほど無惨なものもなく、10分も経たないうちに敵は全て斬り伏せられ、狙われた騎士団は誰一人傷つくことのないまま、戦闘を終えていた。
(危ういところだった)
結果的には無傷で済んだが、オージン・スバルは心臓に冷たい刃を押し付けられたかのような心地を味わっていた。敵の潜伏は見事なもので、もし仮に本隊が差し掛かったときに襲われていたら、「蒼天の鷹」といえども無事に切り抜けられた自信はなかった。
(よく気づいてくれた)
天馬騎士団団長は馬上からセイに視線を向ける。自らも何人かの敵を斃した少女騎士の顔には返り血がべっとりとつき、肌の白さがさらに際立って見えていた。
「助かったぜ、副長さんよ」
「なかなかやるじゃねえか」
それまで自分を侮っていた男たちに感謝されて、「ははは」とセイは道端にへたり込んだまま力なく笑う。今はただ「疲れた」という思いしかなく、褒められて嬉しい、と感じる余裕はなかった。
「そんな気配なんかまるでなかったのに、お嬢ちゃん、あんたどうやって気づいたんだ?」
ぞんざいな言葉の中にも上官への敬意が感じられたが、それだけに、
(まさか占いのおかげだなんて言えない)
今更正直に告白することもできずに、セイはもう一度「ははは」と笑ってごまかすことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます