第60話 女占い師、世界を巡る(その7)
砂漠の夜は肌寒いのは、砂が熱しやすく冷めやすい性質を持っているために、昼間の温度が失われてしまうからだ、という知識を思い出しながら、リブ・テンヴィーは宮殿の2階のベランダから外を見下ろした。松明がいくつもつけられている中で、役人たちが忙しそうに動き回っている。藩主の悪行を暴き立てるために宮殿中を捜索しているのだ。
「ほら、飲みなよ」
室内からやってきた、サタド城国次期太守という正体が発覚したばかりの遊び人がシャンパンの入ったグラスを渡してきて、眼鏡の美女は特に嬉しそうな顔もせずに受け取ると、ぐい、とすぐさま飲み干した。豪快な飲みっぷりに笑ってしまってから、
「まさか、無罪放免してくれるとは思わなかった」
細面の青年も酒を飲む。先程リブを売り飛ばしたのを詫びたところ、「別に気にしてないから」とあっさり許されたのが意外だったのだ。ビンタの一発も覚悟していたんだが、とうわべだけは自らの所業を反省する態度を取ってみせる男に向かって「ふん」と可愛らしく息をついてから、女占い師はそっけなく、
「あなたが女を売り物にして小遣いを稼ぐような小悪党だとは思ってなかったから」
と言ったので、おお、意外と好感度が高い、と遊び人は色めき立つが、
「もっと大それたことをやってのける大悪党だと思ってた。大当たりね」
全くの糠喜びだったので苦笑いするしかない。ははは、と肩をすくめてから、
「いや、この任務をやれるのはきみしかいない、と見込んでのことだった。あの男がベタボレになるほどのルックス、隠された悪行を見抜ける眼力、孤立無援でも戦える度胸。リブ、きみにはその全てがある。きみならやってくれると信じていた」
大変な人に目を付けられちゃったものね、とリブは自らの不運を嘆くしかない。なれなれしく名前を呼ばれても不快にならないのが我ながら不思議だった。
「かよわい女一人に任せるには危険すぎる仕事だと思うけど」
「危なくなったらちゃんと助けるつもりでいたさ」
実際助けに来ただろ? とウインクされて女占い師は溜息をつく。やがて国を治めることになる青年にはカリスマ性があるのか、災難に巻き込まれたのにどうしても憎むことができない。
「ねえ、わたしからもひとつ聞きたいんだけど」
「何なりと承ろう」
酒が入ったからなのか、ふざけだした遊び人に笑ってしまってから、
「素朴な疑問なんだけど、どうして王子様が街中で遊び歩いているの? 宮廷なら他に楽しいことがいくらでもありそうなものだけど」
「そりゃあ、身分あやしき下郎どもと一緒に飲んだくれるのが好きだからさ」
冗談めかして答えてみたものの、「わたしの聞きたいのはそういうことじゃない」という思いがこもった少女の視線をまともに受けて、気まずくなった青年は自らの思いを吐露しようと決める。これまで誰にも打ち明けたことはない。
「この国の頂点に立っているのは太守だが、太守ほどこの国のことをわかっていない人間もいない気がするのさ。お殿様が知っているのは、大臣たちから聞かされた情報だけで、実際に出歩いて自力で得た知識はひとつとして持っていない。そんな人間が国を治めるのは大いなる不幸であり、恐るべき間違いなんじゃないか、って思えて仕方がなかった」
「だから、身分を隠して街に出たの?」
リブの問いかけに「そういうことだ」と王子は頷いて、
「最初にお忍びで都にやってきたときはショックを受けたもんだ。今まで聞かされてきた話とまるで違うことがわかっちまってね。都合のいいデータだけを信じ込んでいたてめえの馬鹿さ加減に呆れて、自分でナマの現実にぶちあたらないと話にならない、みんなと同じ地面に立って同じ世界を見なきゃダメだ、って心に決めたのさ」
砕けた口調の裏に王者の誇りが見えた気がして、
(この人ならいいお殿様になりそう)
と砂漠の国の未来に曙光が見えたかのようにリブは感じる。宝石をぶちまけたようにきらめく夜空の銀河を見上げた青年に、
「きみには礼をしなければいけないな、リブ・テンヴィー」
あらたまって礼儀正しく言われたのがおかしくなって、
「その必要はないわ。
と言いながら室内に戻ろうとする。ビキニとパレオだけではいい加減寒くなっていた。だが、
「そうはいかない」
手首をつかまれて、強引に引き寄せられる。互いの体温が感じられるほどに近づいていた。青年の顔を見上げて、
「どういうお礼をするつもりなの?」
と胸の高鳴りを隠しながら微笑んでみせる。すると、
「わたしの妻になってほしい」
遊び人の表情はいつになく真摯なものになっていたので、ジョークではないことは明らかだったが、それゆえに女占い師は困惑するしかない。
「えーと、それがどうしてお礼になると思うの?」
「どうしてお礼にならないと思うのか、逆にこっちが聞きたい。いずれ太守になる男の妻になることこそが、女として最大の幸福ではないか」
価値観の相違をリブは感じざるを得ない。結婚だけが人生の唯一のハッピーエンドだとみなす見方には根強いものがあり、放蕩に明け暮れているように見えるこの青年も古い伝統的な考え方に縛られているということなのかもしれない。
「わたしの幸せはわたしが決めることよ。あなたに決められたくない」
きっ、とまなじりを決して睨みつけるが、
「そういう気の強いところも素敵だ」
青年はより一層美女に魅了されてしまったようで、抗議はほぼ無意味になってしまう。
「きみに選択権はない。わたしの愛を受け入れるよりほかに、この状況から抜け出す術はない」
単純な腕力でもかなわない上に、青年の部下が大勢この宮殿にはいる。逃げ出すことは不可能だ、と勝利を確信した王子は抱きしめた占い師に愛のしるしを刻み込むかのように唇を寄せようとするが、
「ん?」
ちょいちょい、と純白の寛衣の裾を引っ張られたのを感じた。無粋な輩め、と苛立ちながら視線を向けた男は、あるはずがないものを目にして言葉を失った。
「おにいちゃん」
年の頃は5歳か6歳か、可憐そのものというべき少女がそこにはいた。藩主に子供はなく、この宮殿に幼児は住んではいない、というのを若者は知っていた。彼の記憶の中にしか存在しない娘が、風の吹かない夜の空気の中で白く浮かび出ているのが見えた。
「おにいちゃん」
幼い声に追憶と悔恨が呼び起こされる。どうしても守らなければいけなかったのに、守り切れなかった少女。その喪失こそが青年の原点であり、小さな命を守りきるために強くあらねばならない、という信念もそこから生まれていた。だからこそ、太守の後継者でありながら街に出て自らを危険に晒す無謀な行為にも出ていたのだ。
「おにいちゃん」
みたび聞こえた呼びかけに、並の人間であれば決して戻れない過ぎ去りし時に心を囚われてしまうところだったが、後にサタド歴代の君主のうちでも有数の英邁さを称えられることになる若者の精神力は強靭で、甘やかな幻想に逃げ込むことなく苛酷な現実に踏みとどまることを自ら選び取り、生還を果たす。
「なに?」
少女との再会と別離に動揺していた遊び人は、しっかり抱いていたはずの美女が消失しているのに愕然とする。
「おのれ」
女占い師の仕業に違いない。何らかの能力で幻覚を見せられたのだ。思わず舌打ちする青年の耳に、表がにわかに騒がしくなったのが聞こえてきた。手すりから身の乗り出して見てみると、馬車が宮殿の前に横付けされていて、手綱を取っているのは、
(あの婆さんか)
リブ・テンヴィーの師匠の老婆だ。一度しか見たことはないが、強烈なオーラに思わず気圧されたのを思い出す。そして、幌のない荷台にはリブが座っていて、こちらを見上げた彼女と目が合った。彼女はわたしを嫌っているわけではない、というのが何故かわかって、
(わたしの想いは嘘偽りのないものだ)
そんな思いを込めて見つめ返したが、それと同時に馬車が猛烈な勢いで走り出し、リブも顔を背けてしまったので、恋心が伝わったかどうかはわからない。
「申し訳ありません。突如乱入してきた何者かに馬車を奪われまして」
バルコニーに駆け込んできた口髭の隊長が失態を詫びてきたが、
「構わん」
若殿は部下を責めはしなかった。自分に幻を見せた娘の師匠ならいかなる力を持っていても不思議ではない、という気がした。
「いかがなさいますか?」
膝をついて礼の姿勢を取っていた隊長に訊かれた青年は少しだけ考えてから、
「追え」
猟犬に命令を下すハンターのごとき冷酷さを漂わせながら告げると、「はっ!」と忠実な家来は弾けるように動き出して室内へと戻っていく。追跡するよう、一応命じてはみた。何らかの幸運あるいは不運によって彼女が再び自分の元へ戻ってくればいい、とも願っていた。だが、
(あの娘は二度と戻るまい)
何故かそんな予感があった。たとえ会えたとしても心まで得ることはできはしない。帝王にも手にすることのできない宝がこの世にはあるのだろう。そう思った後で、王子は逃げ去った占い師の面影を追い求めるかのように、瞬く星々を見上げたまましばし動かずにいた。
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