第44話 旅の始まり(中編)

「いつまでも泣いてるんじゃないよ」

きつい口調で言われたリボンの身体が、びくん、と跳ねる。といっても、老婆は少女に腹を立てていたわけではない。寄る辺のない幼い娘を思いやったからこそ、あえて厳しくする必要がある、と占い師としての長年の経験から考えたまでのことだった。

「あんたの目の前には3つの道がある」

「え?」

涙を引っ込めた令嬢が顔を上げると、テンヴィー婆さんが右手の指を3本立てていた。人差し指、中指、薬指、どれも太く丸っこい感じなのが、いかめしい表情と対照をなしてユーモラスに見える。

「まず、一つ目は予定通りマキスィの学校に入ることだ。あっちに着くまで大変かもしれないが、向こうだってはるばるやってきた人間を追い返したりはしないんじゃないかね?」

柱にかけられたランプだけが照らす納屋の中に短い沈黙が流れた後で、

「二つ目はアステラに戻ることだ。盗賊に襲われたというのは誤報だった、ということにして、今まで通りお屋敷で暮らす、というのもありだろうね」

ふむ、と老婆が小さく頷いてから「最後の道」について語ろうとすると、

「三つ目にします」

リボンがきっぱりと言ったので、白髪の老人は驚いてしまう。

「おやおや。まだ説明していないのに、決めちまってもいいのかい?」

「だって、一つ目も二つ目も無理なんですから、仕方ないじゃないですか」

そう言って、令嬢は紫の瞳をいたずらっぽく輝かせて微笑む。リボンにとっては考えるまでもないことだった。まず、一つ目の「道」を行けないのは、老婆の考えとは違って、そもそも入学できるかが疑問だと思っていたからだ。何故なら、入学の費用として用意していた金貨を馬車に置いて来てしまっていて、現在の彼女は一文無しなのだ。特別に入学を許されたとしても、その後の生活が立ち行くはずがない。少女がいくら聡明でも、まだ13歳では自分で金を稼ぐのは難しく、したがって学業については諦めるしかない、と早々と判断していた。そして、二つ目の「道」については論外としか思えなかった。誰が好き好んで自分の命を狙った人間とひとつ屋根の下で暮らしたいと思うのか。

(ゆるせない)

テンヴィー婆さんの説明を聞いているうちに、叔父への嫌悪感と侮蔑が湧き起こってくるのを自覚せざるを得ない。自分が殺されかけたこと以上に貴族らしからぬ卑怯な振舞いに怒っているのが、人一倍誇り高いこの少女らしいところではあった。ショックから立ち直ったアマカリー家の娘は薄汚れた犯罪者に堕した親族を決して許すまい、とそのとき決意していた。そして、もうひとつ、

(セディを巻き込めない)

とも思っていた。もし仮にアステラに戻れば、セドリック・タリウスが彼女の元に駆けつけてくるはずで、恋する少女の窮地を知ったまっすぐな心を持つ貴族の少年は何を措いても助けようとするだろう。だが、それはリボンの望むところではなかった。自分のために彼が傷つくことは、この世で起こり得る災難のうちで最も起こって欲しくないものだという気がした。もしかすると、少年が少女を恋する以上に、少女は少年に恋をしていたのかもしれなかったが、大人になり切っていない娘は、相手のことを思うが故に、自らの想いに幕を下ろそうとしていた。

「そうかい」

ふう、と老婆はいかにも大儀そうに息を吐いてから、

「実を言えば、あたしもそれが一番いいと思っていた。というよりも、あんたはそうするしかない、と思っている」

そして、

「あたしについてきな。力の使い方を教えてやる。それが最後の道だ」

老人はそう言って、まだ無事な右目を光らせたが、

「『力』ってどういうことですか?」

何を言われているかわからず、リボンは首を傾げてしまう。

「とぼけたって無駄だ。あんた、妙なものが見えて困っているんだろう?」

別にとぼけたつもりはなかったが、妙なものが見える、というのは確かにその通りだったので少女は思わず身を固くする。短躯の女性と一緒に山道を歩いているこの数日の間、おかしなものが目に入ってずっとびくびくしていたのだ。樹々の隙間からこちらを見つめてくる首から下のない誰か、ふわふわと頭上を漂う子供たち、土の底から伸びてくる手足。そういった得体の知れないもの、この世のものではないことだけはわかる何物かに悩まされているのを隠しているつもりだったのが、老婆にはお見通しだったわけだ。さらに言えば、国境付近を歩いているおかげで、他の人間と会う機会はそれほどなかったのだが、ごくまれに旅人とすれちがったときにも困ったことが起こっていた。その人がこれまで何をしてきたか、その人がこれからどうなるかが見えてしまうようなのだ。ついさっき、農家で食事を摂らせてもらった際にも、この家の主人と奥さんと子供たちの現在だけでなく過去と未来までも同時に見えてしまって、久しぶりの温かいご飯の味もよく覚えてはいなかった。

「あんたは覚えているかはわからないが、寝るたびに必ずうなされているのも、夢の中で何かが見えちまっているんだろうさ」

夜中に叫びながら飛び起き、はあはあ、と荒い息をして身体が汗にびっしょり濡れているのに気付く、というのが毎晩続いていたのも同じ原因だったのか、とリボンは愕然とする。てっきり殺されかけた恐怖から立ち直っていないからだとばかり思っていたのだが。

「いや、それは当たらずとも遠からず、といったところだね」

くすんだ銀の煙管きせるで一服しだしたテンヴィー婆さんは目を閉じて頷く。

「どういうことです?」

少女の問いかけに、すぱーっ、と煙を吐き出してから、

「首を絞められて危うく死にかけた、そのせいで、あんたの中で眠っていた力が目覚めた、ってことさ」

片方だけ開いた右眼をぎらりと光らせて、

「つまり、あんたはこの世界からずれて、違う世界とつながっちまった、ってことだ。もう普通には生きられない、と覚悟するんだね」

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