第32話 ある令嬢の初恋(その5)
「ふひゃっ!?」
セドリック・タリウスにいきなりキスされたリボン・アマカリーは顔を真っ赤にして素っ頓狂な叫び声をあげてしまう。
「ななななななにをするのよあんた! エッチ! スケベ! 変態!」
右手をもぎ取って罵倒の限りを尽くしてから、
「そういう悪い冗談はやめて。ちっとも面白くないわ」
恥ずかしさをこらえながらつぶやいた。すると、
「ぼくは本気だ」
セドリックは明らかにむっとしながら、視線を地面に落とし、
「本当はもっと大人になってから、ちゃんと伝えるつもりだったんだ。きみにふさわしい立派な男になってからプロポーズしたかった。きみはとてもかわいくて頭も良くて、今のぼくじゃとてもかなわないからね」
少年の嘆きには実感がこもっていて、
(セディに悪いことしちゃった)
リボンは自らの過ちに気付かされていた。「おばか」と繰り返し呼んでいたのは悪口ではなくある種の愛情表現のつもりではあったのだが、彼の自尊心を確実に傷つけていたのだ。
「じゃあ、どうして、今しようと思ったの?」
そう問いかけた少女の瞳には今や隠しようのないときめきが浮かんでいる。
「もうぼやぼやしていられないと思ったんだ。きみをお嫁さんにしたいと思っている、ぼくのライヴァルは星の数ほどいて、いつ先を越されるかわからない。『まだ12歳だから』と思おうとしたけど、そうじゃない。きみもぼくも『もう12歳』なんだ。だから、ぼくが最初にきみに告白したかった」
リボン・アマカリーの美貌が社交界で既に評判になりつつあるのにセドリックは気づいていて、噂を耳にするたびにやきもきさせられていた(リボン自身も聞いてはいたが本気にはしていなかった)。先日、父のタリウス伯爵と一緒に出掛けた遠乗りでも、
「アマカリーの娘、ぜひ我が物にしたいものだな」
と20歳を過ぎた青年たちが少女を一人前の恋愛対象として認めているのを知って愕然としたものだった。それがセドリックに求婚の予定を早めさせる決定打となったのだ。
「だから、リボンちゃん。ぼくと結婚してくれないか?」
金髪の少年は惜しみなく熱烈な愛情を捧げようとするが、
「そんなの信用できない」
ブルネットの少女はすげなく拒んだ。
「どうして? ぼくの何が気に入らないんだ?」
セドリックの反論はほとんど悲鳴に近いものだった。
「だって、あなたはいずれタリウス家を継がなきゃいけない身で、わたしはアマカリー家を継がなきゃいけない身なのよ? だから、どちらかが諦めないといけないじゃない」
リボン本人は子爵家の継承に執着があるわけではなかったが、彼女の祖父が許しはしないだろう、と思っていた。そして、セドリックが伯爵家の息子に生まれたことに誇りを持っていることをよく知っていた。だから、少女にしてみれば少年のプロポーズには無理があるとしか思えなかったのだが、
「それは問題じゃない」
セドリックはきっぱりと言い切った。
「そんなわけないじゃない。どう考えたって大問題よ」
貴族の生まれである2人には家を継ぐことは人生の一大事にほかならない。だから、客観的に見れば少女の意見に分があるはずだったが、
「問題だろうと大問題だろうと、なんとかしてみせる。一番大事なのは、ぼくがきみを愛していることで、愛さえあれば、それ以外のことはみんなどうにでもなるんだ」
馬鹿じゃないの、とリボンは叫びたくなる。なんとも愚かしく、子供だましにもならないたわごとだ。だが、そんな
「まだ信用できない」
しかし、それでもまだリボンは険しい表情を崩さなかった。
「リボンちゃん、きみって本当に頑固だね」
思わず苦笑いを浮かべたセドリックに向かって、
「わたしとお母様、どっちが大事?」
令嬢は再び問いかける。
「は?」
「セディ、あなた、お母様をこの世で一番愛しているんじゃなかったの? わたしよりもずっと大事なんじゃないの?」
自分でも意地悪な質問だというのはわかっていたが、それでも告白してきた相手が重度のマザコンだというのは
「え?」
リボンは少年の異変に気付く。片膝をついたままがたがたと音が鳴るほどに全身を震わせているではないか。
「ねえ、セディ、どうかしたの?」
さすがに心配になって声をかけると、
「母上には、もうふられてるんだ」
世にも悲しげな声が返ってきた。
「はい?」
「ぼくが8歳のときだったかな。『大きくなったら母上と結婚します! 必ず幸せにしてみせます!』と言ったら、『ごめんなさいね。わたしはあなたのお父様ともう結婚してるのよ』と断られてしまってね」
あたりまえじゃない。そう言われるに決まってるでしょ。リボンは呆れ果ててしまうが、
「その後三日三晩ずっと泣きっぱなしで、栄養失調で危うく死にそうになったものさ」
マザコンも命懸けならば天晴なのかもしれなかったし、思い出を語る少年が血涙が噴き出しそうな表情を浮かべているのを見ると、からかう気にはとてもなれなかった。
「だから、きみにまでふられたら、ぼくはとても生きていけないんだ」
告白というよりは脅迫に近いことを言ってから、
「悪いけど、母上ときみ、どちらが大事か、というのはぼくには答えられない。どちらも同じくらい大事、としか言えない。でも、どちらも同じように、この世界で一番愛している、というのは間違いないから。それは信じてほしい」
馬鹿じゃないの、とリボンはもう一度叫びたくなった。普通の男だったら「きみが一番だよ」と調子のいいことを言っておくべき場面で、事もあろうにこの少年は「どっちも大事だ」と正直に答えてみせたのだ。誠実さを通り越して愚かしかった。しかし、少女の叫びを止めたのは「この世界で一番愛している」という言葉だった。自分でも気づいていなかった、心のどこかでひそかに待ち望んでいたものが、ようやく目の前に現れたかのような甘美さが12歳の娘の全身を満たし、くすんだ世界の色彩が画家の巧みな手際で塗り直されたかのように鮮やかになって、視界が新たなものに生まれ変わっていく。
「どうかな? これでもまだ信じられない?」
ずっと胸に秘めていた思いを打ち明けられたからなのか、セドリックの口ぶりにも余裕が現れていたが、しかし、それでもリボンは頑なで、少年の問いに首を横に振って、
「信じられない」
と小さくささやいた。
「何が信じられないのかな?」
少年は苦笑いを漏らし、
「一番信じられないのは、あなたよ」
少女は泣きそうな顔になって告げる。
「ぼくがきみを好きだ、というのが信じられない、ってこと?」
「ええ、そうよ。今はそうかもしれないけど、いつまでもそうとは限らないわ。人の気持ちは変わるものだし」
唇を噛み締めてから、
「わたしみたいな生意気な女の子なんか、あなたもいつか嫌いになるに決まってる。男の人は大人しくて言うことを聞く女の子が好きなのよ」
もっと女らしくしろ。慎ましくあれ。無駄口を叩くな。一緒に暮らしている叔父夫婦は毎日のように姪を注意してきて、リボンはそれを煩わしく思っていた(祖父のアマカリー子爵は孫娘の奔放さを愛して滅多に説教しなかったが)。わたしはわたしだ。女というだけで抑圧してくるしきたりなんてくだらない、と思って抵抗しようとしていたが、いざとなってみると、世間の仕組みを完全に無視できるほど自分は強くなく、ひとりだけで立ち向かって戦えるほどの自信はない、というのに気づかされていた。だから、少年のまっすぐな愛情にも素直になることができない。
(なんてだらしない)
弱い自分をリボンは呪いたくなるが、
「そんなことあるもんか」
セドリックは彼女の言葉を朗らかに笑い飛ばした。
「でも、だって」
「確かにきみは生意気であまのじゃくで頭に来ることばかり言ってくる、本当に困った女の子だよ」
でもね、と少年は笑い、
「そういうきみがぼくは好きなんだ。そういうきみにずっとそばにいてほしいんだ」
それがリボン・アマカリーがセドリック・タリウスの想いを受け入れた瞬間だった。体中を清涼な風が吹き渡った気がして、少女は平静さを取り戻していた。
「今すぐ結婚する、というのはいくらなんでも無理よ」
銀の鈴が鳴るような声を耳にして、
「確かにそうだね。ぼくらはやっぱり、まだ12歳だから」
セドリックはかすかに微笑む。
「もうしばらく経ったら、どうせあなたは他の女の子に目移りしちゃうんでしょうけどね。あなたってエッチだから、色っぽいおねえさんにアタックされたらすぐにメロメロになっちゃうに決まってるし」
「だから、そんなことはないってば!」
むきになって怒る少年に、
「でも、もっと大人になって、それでもまだわたしのことを好きでいられたのなら」
リボン・アマカリーは紫色の瞳でセドリックを見つめて、
「あなたのお嫁さんになってもいいわ」
そう告げられた少年は目を丸くして呆然とした後で、黙って立ち上がると無言のまま少女を強く抱きしめた。感動のあまり伝えるべき言葉を見失ってしまったのかもしれない。
「ちょっと、セディ、離してったら」
そう抗議されると、セドリックはすぐにリボンから身体を離して、
「あっ! そうだ!」
目を泳がせながら急に慌て出し、
「そういえば、もうすぐおやつの時間じゃないか。ぼく、先に戻ってるから」
と叫ぶなり、屋敷の方へと一目散に駆けて行ってしまった。顔どころか手足まで赤くなっているところを見ると、自分のやったことの恥ずかしさに遅ればせながら気付いたのかもしれない。
(なんなのよ、もう)
取り残された令嬢は御曹司の後ろ姿を見送るしかない。言いたいことを言って逃げ去った幼馴染に怒り心頭ではあったが、
(でもね)
右手の甲をじっと見つめているうちにうっとりした心地になって、
(もしも、わたしとあなたが本当に結婚できたなら、それはとても素敵かもしれないわね)
少年にキスされたあたりにそっと口づける。その瞬間、リボン・アマカリーの小さな体は激しい感動に貫かれ、全神経が麻痺するほどの強すぎる衝撃を味わっていた。少女の目に映る午後の庭園は輝きに満ちていて、あまりに強い光の中で自分自身も消え去ってしまいそうだ、と感じながら、リボンはただ黙って幼い愛の余韻にひたっていた。
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