第26話 雨の訪問者(前編)

「そろそろおいとまさせてもらおうか」

そう言いながら立ち上がった老紳士に、

「あら。もっとゆっくりしていけばいいのに」

リブ・テンヴィーは微笑みかけた。

「そうしたいのはやまやまだが、この後も用事が立て込んでおるのだ。身体のあちこちにガタが来たじじいをこきつかいおって、たまったもんじゃない」

一昔、いや二昔前に流行ったタイプのスーツに身を固めた白髪の老人はマキスィ都市連合の商人だ。一年に一度、商談のためにアステラ王国まで北方から遠征しに来て、そのたびにリブに相談に乗ってもらっていた。今日も彼女の家までやってきて、さまざまな悩み事を打ち明けていたのだ。

「そんなに嫌なら、もう隠居しちゃえば?」

肩もあらわな真紅のドレスに身を包んだ女占い師にからかうように言われて、

「息子たちはまだ頼りにならないから、わしが出張るしかないのだよ」

それに、と言いながら老人はリブを見つめて、

「引退すれば、あんたにも会えなくなるしな。まあ、わしの近くに来てくれるのであれば、話は別だが」

にやりと笑ってみせたが、冗談めかした口調がかえって彼が本気で彼女を求めていることを証明しているかのように聞こえてしまう。リブはこの豪商から何度となく「ずっとそばにいてほしい」とマキスィに来るように誘われていた。老いた紳士がこの美女を単なる相談相手とみなしていないのは明白だったが、

「引退しても会いに来ればいいじゃない。そうしたらゆっくり遊べるわ」

それまで告白されたときと同じくリブは遠まわしに誘いを断り、老人もそれはわかっていたかのように表情を変えずに小さく頷いた。目の前に座る妖艶な女性が、自分の手に余る財宝だというのが、彼にはわかっていたのかもしれない。

「しばらく休業していたと聞いていたから、あんたと会えただけでも喜ぶべきなのだろうな」

「心配かけちゃったみたいね」

リブは申し訳なさそうに微笑む。セドリック・タリウスが二度目に訪問した翌日から彼女は仕事を再開していた。くよくよしているのが馬鹿馬鹿しくなったのと、仕事をしていれば面倒な考え事をしなくて済む、と思ったおかげで立ち直れたのだが、考えてみればセドリックの最初の訪問が休業のきっかけになっていたので、若い伯爵に行動を左右されている自分自身に腹が立って仕方がなかった。

「うーむ」

玄関の扉を開けると、ざあ、と激しい雨音が聞こえて老紳士は唇を噛み締める。南の王国にやってきてから、ずっと悪天候が続いていた。

「大丈夫?」

見送りに来た女占い師の掌が背中にそっと押し当てられたのを感じて、老いさらばえた痩せた身体に若き日の生気が一瞬だけ甦った気がした。

「なに、傘はちゃんとあるし、近くに馬車を待たせておる。少々濡れるだけで済む」

そのせいなのか、紳士の口ぶりはいつになく力強く、リブを見つめる瞳にも光がらんらんと輝いていた。だが、

(この人と会うのはこれが最後になる)

女占い師は直感し、そしてそれが決して外れないことも知っていた。彼女には人の見えないことが見え、人がわからないことがわかってしまうのだ。

「足元に気を付けてね」

潤みかけた声を押し隠しながらささやくと、

「ああ。せいぜい転ばぬようにするさ」

老人もまたこれが最後の別れだと気づいているように思われたが、ただの錯覚かもしれない。きちんとした身なりの紳士は傘をさしてから、道の反対側にちらりと目をやって、何かを気にするそぶりを見せてから、

「世話になったな。リブ・テンヴィー、あんたは本当に美しい人だ」

と小さな声で告げてから、確かな足取りで通りの方へと去っていく。雨で霞んで見える大きな黒い影が、老人を待つ馬車なのかもしれない。マキスィから来た客人の後ろ姿が見えなくなるまで、リブは小さく手を振り続けた。そして、振り終えた白い掌でそのまま口元を覆って、しばし俯いたのちに、顔を上げ直したときには、彼女の表情から別離の悲哀は消え失せ、冷然たる雰囲気すら漂わせていた。そして、

「いつまでもそこにいられたら、営業妨害なんだけど」

顔の向きを変えずに言い放つ。見なくても彼がそこにいるのはわかっていた。返事がないのに苛立って、

「いい加減にしないと警察を呼ぶわよ」

もう少しで怒鳴りかけたのをどうにかこらえてみせた。すると、

「呼べばいい」

雨音に消えそうな返事が聞こえてきた。嫌々ながら振り向くと、

「きみがしたいようにすればいい」

家の庇の下でセドリック・タリウスが立ち尽くしているのが見えた。ここのところ毎日、彼女の家まで来ては面会を求め続け、断られてもずっと家の外で待っているのだ。抛っておけばいつかは諦めるだろう、とリブは伯爵を無視していたのだが、

「ねえ、あなた正気なの? 捕まったりしたらとんでもない不名誉になりかねないのよ? あなたの大事なタリウス家に傷をつけてもいいというの?」

いつまでたっても音を上げない若い貴族にたまりかねた女占い師はとうとう怒ってしまう。

「わかっている。それは十分わかっているつもりだ」

整った容貌を歪めて、セドリックは苦しげに答える。

「だが、わたしには他にどうしようもないんだ。きみに会って話をするよりほかに、今のわたしには何もできないんだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る