第3話 「影」、山中をさまよう(後編)
「はっ!?」
失神から覚めた「影」は自分の身体が地面に横たえられているのに気づいた。しかも、全身がんじがらめに縛りあげられていて身動きが取れない。彼の身体を拘束しているのは何らかの植物の蔓だ。縄がなかったので代用したのだろう。
(こんなもの)
本来の男の実力からすれば、抜け出すことはたやすいはずだった。だが、力を込めて断ち切ろうとしても蔓は意外と強靭でちぎれることはなく、逆に力を抜いて隙間を作ろうとしてもしっかりと結ばれているためなのか隙間ができることはなかった。それもそのはずで、
「気が付いたか。この痴漢」
「影」を縛ったのがナーガ・リュウケイビッチだったからだ。「
「わたしたちが連れ立って、昼間から露天風呂としゃれこもうとしているのを何処かから聞きつけて、追いかけてきたのだろう。品性下劣な変態野郎め」
万死に値する、と言わんばかりに金色の瞳を燃え上がらせるナーガに、いや、違う、誤解だ、と「影」は弁明しようとする。素性は知れないが、この娘には人を殺すだけの力があって、自分を本気で始末しようとしているのは明らかだ。だらだらと墨汁のように黒い汗を流しながら言い訳にもならないことをぼそぼそとつぶやく正体不明の男だったが、
「ん?」
この場にもう一人の人物がいるのに気づいた。今、「影」が寝かされているのは温泉のすぐそばの地べただが、少し離れた場所に少女たちと同じようにタオルを身体に巻いた背の高い女子がいるではないか。湯煙が立ち込めているおかげで目に入らなかったのだが、腕を組んで困ったような顔をしている彼女こそ彼が探し求め追いかけていた獲物だった。
「セイジア・タリウス!」
咽喉が裂けんばかりの絶叫に、ナーガ、それにアンナとモニカの姉妹は驚いて動きを止めてから、後ろにいるセイの方を振り返った。
「おまえの知り合いか?」
モクジュから来たショートカットの黒髪の娘に訊かれて、母親譲りの金髪をタオルで隠している騎士が溜息をつくと、それはすぐに湯気と混じり合った。
「まあな。以前少しばかり関わりを持ったことがある」
標的の女子があからさまによそよそしい態度だったので、「影」の怒りは一気に頂点に達する。おれを三度までも倒しておきながら、おれがこれほどまでに憎んでいるのに、おまえはおれに興味を持たないというのか。セイにしてみれば「知らんがな!」と叫びたくなるような理不尽にもほどがある憤りだったが、抑えかねた激情が男の口を開かせていた。
「セイジア・タリウス! おれはおまえを殺してやるためにここまでやってきたのだ! もう逃げられんぞ! 覚悟しておけ!」
逃げられないのはおまえの方だろう、と最強の女騎士が捕縛された男に心の底から呆れていると、
「なるほど。事情は分かった」
ナーガ・リュウケイビッチが深く頷いてから、「影」を指差して、
「つまり、おまえはストーカーなのだな?」
「は?」
思いもかけない言葉に黒ずくめの男は唖然として大きく口を開けてしまう。
「ああ、そういうことなんですか。この人は、セイジア様に一方的に恋焦がれて、とうとうわたしたちの村までしつこく追いかけてきたというわけなんですね?」
アンナが納得した表情を浮かべると、「うわあ最悪」とモニカが吐き捨てた。
「そうではない。おれがやってきたのは復讐のためだ。やつから受けた屈辱を
少女たちに性犯罪者だと思われた「影」は必死になるあまり本心を吐露していた。人殺しだの外道だのと蔑まれるのは構わない。しかし、性欲でとち狂った馬鹿者と思われることだけは、自分なりの矜持を持ち合わせているつもりのアウトローには我慢できなかったのだ。だが、
「語るに落ちるとはこのことだ。変態ほどご大層な理屈を並べたがるものだ」
懸命の反論も、ナーガの心証をより悪化させてしまったらしく、
「貴様の代わりにわたしがこいつを始末しておいてやろうか?」
出かけたついでに買い物を引き受けようとするかのような調子でセイに呼びかけた。のんびりした声に異国の少女騎士の本気を感じ取った「影」は完全に慌てふためき、この危機を逃れようと芋虫のように身をよじらせるが、
「まあ、ちょっと待て」
セイが「影」のそばまで近づいてきた。
「こいつの身柄をわたしに預けてくれないか?」
「どうするつもりだ?」
不満顔のナーガにセイは笑いかけて、
「確かに風呂を覗いたのはよくないことだが、殺してしまうのはどうか、と思うんだ。こいつもそんなに悪いやつじゃないんだ」
「何かいいことをしてたんですか?」
アンナに訊かれて、「もちろん」と女騎士は実例を挙げようとしたが、よくよく思い返してみると、この男はこれまでろくでもないことしかしてこなかった、と気づいて、
「とにかく悪いやつではない、と思う」
語勢をいくぶん弱めざるを得なかった。
「この場で片付けておいた方が世のため人のためだと思うが」
正義感の強いナーガはなおも納得していない様子だったが、
「わたしにまかせてくれ。これ以上みんなの迷惑になるようにはしない」
頼む、とセイに頭を下げられると、「ちゃんと責任持てよ」と「蛇姫」は、ぷい、と顔をそむけた。お願いされると断れない性分なのか、とりあえず「影」を殺すのは思いとどまったらしい。
(この女はおれをどこまで辱めれば気が済むのだ)
命を救われておきながら「影」は怒りに体を震わせていた。いや、命を救われたからこそ激怒していた、というのが正確だろう。倒すべき憎むべき相手から情けをかけられるなど、誇り高い闇の刺客にとって考えられる限りで最大の屈辱を受けていた。ただ殺すだけでは気が済まない。苦しめるだけ苦しめてから死なせ、五体をバラバラにして荒野にばらまいてやる。そんな凄惨な絵図を脳裏に描きでもしないと神経が保てそうになかった。
「ところで」
そんな男の気も知らずに、セイがのんきに声をかけてきた。
「おまえはなんという名前なんだ?」
「は?」とセイ以外の全員が思わず声を上げる。自分の名前を知られていなかったのにショックを受けた「影」本人はもちろんのこと、「名前も知らない人をわざわざ助けたの?」とナーガもアンナもモニカも呆れてしまっていた。
「貴様、ふざけるんじゃない。おれを馬鹿にするのもいい加減にしろ」
顔面をどす黒くしてわめき散らす「影」に、
「いや、だって、おまえはわたしに名乗ったことなんかないじゃないか。だから、知らなくてもしょうがないだろ?」
セイが戸惑いを隠さずに答えると、そういえばそうだった、と男も認めざるを得なかったので、
「おれの名は『影』だ」
一拍おいた後に名乗っていた。涼しい風が音を立てて木立を抜けてから、
「いや、そんなことはないんじゃないのか?」
「なんだと?」
セイの言っている意味が分からずに訊き返すと、
「見たところ、ちゃんと生えているじゃないか。フサフサでカツラにはとても見えないぞ」
「誰がハゲだ! おれは『影』だ!」
とんでもない聞き間違いをされた裏社会の住人は激昂し、漫才のようなやり取りにナーガと2人の姉妹は声を上げて大笑いする。
「え? 『影』って、あの影のことか? 光ある所に必ず存在するあれのことか?」
「あたりまえだ。それ以外にどんな影がある?」
自ら名付けたわけではないが、わりと気に入っていた通り名なので、セイに向かって自信満々に男は答えたが、居合わせた女子は揃って、
「ちょっと何を言ってるのかわからない」
と言いたげな顔をして困惑を隠していなかったし、それどころか一番年下のモニカは、
「うわ。ださっ」
とはっきり口に出していた。
(まさか、この名前はかっこよくないのか?)
そのように受け止められる可能性など一滴たりとも体内に存在させていなかった「影」は愕然とする。もしこの場にリブ・テンヴィーがいたなら「中二病丸出しね」とこの世界には無いワードを持ち出して呆れたに違いないが、男女の価値観の相違を緊迫した状況で思い知らされる羽目になっていた。
「まあ、『影』だかハゲだか唐揚げだか知らないが、これに懲りたらもう二度とのぞきなどしないことだ」
ドヤ顔で言ってきたセイを眼球が飛び出さんばかりに睨みつけながら、
「覚えておけ。貴様とは必ず決着をつけてやる」
「影」はあらためて挑戦状をたたきつけた。
「それは一向に構わないが」
どこ吹く風、といった表情で男の鬼気を受け流したセイは、
「その前におまえと決着をつけたい、という連中がいるようだ」
何を言っている? という「影」の疑問への解答は女騎士の背後に見えていた。
「やはりこのままではわたしの気が済まない」
自慢の武器である「鉄荊鞭」を握りしめたナーガと、
「ごめんなさい。少しだけボコボコにさせてもらえますか?」
「セイジア様の手を借りるまでもなく、わたしがぶっ殺してやります」
何処かから拾ってきた太い木の枝を手にしたアンナとモニカが立っていた。裸を見られた彼女たちの怒りは消えていなかったのだ。
「いや、ちょっと待て。何度も謝ったじゃないか。すまない。本当にすまなかった。だから頼む。痛くしないでくれ。お願いだ。頼む。うわ。うわあ!」
任務を果たす過程で敵に捕らわれたことも何度となくあるはずの一流の仕事人は、少女たちに囲まれて本気で恐怖して命乞いをしたが、もちろん聞いてはもらえず、昼過ぎの
「ふう。いい湯だなあ」
温泉に入り直したセイジア・タリウスは極楽気分を満喫していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます