第2話 「影」、山中をさまよう(中編)
脱獄した「影」は、セイジア・タリウスが都を去り辺境へと旅立ったことを知ると、
「逃げやがった」
といまいましそうに吐き捨てた。もちろん、それは事実に反していて、セイは男のことなどまるで眼中になかった。人生に行き詰まった人間は、自分を中心に世界は存在する、と思いたがるもので、このときの「影」もそういった思考法に嵌まりこんでいた。あるいは、自分が相手に執着しているように相手も自分に執着している、と思いたがっているのかもしれなかった。金髪の女騎士が彼の名前も知らず、
「あの黒い変なやつ」
としか認識していないと知ったら、黒ずくめの仕事人はさぞかしがっかりしただろうが、いずれにせよ「影」には復讐を諦めるつもりはなく、
「おれの方から出向いてやる」
セイの後を追い、東の国境地帯へと向かうことにした。長い旅路ではあったが、苛酷な生活には慣れているうえに、この間まで獄中にあった男はまるで苦にしなかった。今回、彼は女騎士を倒す秘策を用意していて、それをもって彼女を打倒することを考えると、黒い笑みを止めることができなかった。
「貴様も今度こそ一巻の終わりだ」
「あれ」を食らえば最強の女騎士といえどもただでは済まない、と確信していた。かくして、「影」は日夜休むことなく駆け続け、セイへと次第に接近していったのだが、いよいよ彼女が住むジンバ村にもうすぐたどりつく、という段になって、思いがけない誤算に見舞われることになった。
「ええい。ここは一体何処だ?」
「影」は辺りを見渡すが、視界に入るのは一面の緑ばかりで、手がかりになりそうなものは何もない。自分が今歩いているのが道なのかどうかも判然とせず、夏の到来を実感させる日射しが頭上から照り付け、彼の焦燥を一層高めていく。一言で言えば、道に迷っていた。俺様ともあろう者が、と彼自身思っていたし、一流の刺客らしからぬミスではあったが、「影」が迷子になってしまったのにはそれなりの理由があった。彼の仕事の性質上、悪人を相手にすることが多かったのだが、悪というのは人が多く集まる場所にわだかまるもので、そうなると地方よりも都会で仕事をすることが多くなるのも必然というものだった。ジンバ村のような「ど」がつくほどの田舎には悪も存在せず、「影」のようなならず者が立ち寄る必要もなかったのだ。したがって、今の彼はきわめて不慣れな状況に自分から踏み込む格好になってしまっていたのである。
「とにかく道に出なければ」
がさがさ、と腰の高さまである藪をかきわけながら、「影」は深い森を進んでいく。あの女を倒すためだ、この程度の苦労は屁でもない、と闇の仕事人は強がるが、尖った葉にでも刺されたのか、腕のあちこちがちくちく痛み、顔の周りをぶんぶん虫が飛び回って離れてくれない。
「おのれ、セイジア・タリウス。おれが今こうして苦しんでいるのも、全て貴様が悪いのだ」
そんなことまでわたしのせいにされても、とセイが弱りそうなことを考えながら「影」は行く。今舐めている辛酸を甘露に変えるべく、リベンジの達成を妄想しながら歩き続けていると、
「む?」
一流の暗殺者の鋭敏な耳はその音を聞き逃さなかった。いや、「音」ではなく「声」だ。誰か人がいるのだ。しかも、会話をしているようなので、複数の人間がいることになる。こんな山奥で何をしているのか、と今まさに遭難しかけている男は不思議に思ったが、それ以上に、
「ありがたい」
と感じていた。情無用の仕事人にしては珍しく素直に感謝の念を覚えているあたり、彼も相当に参っていたらしい。道を教えてもらおう、と安堵の息を吐いてから、「影」は声のした方へと近づいていく。目の前を覆い隠す樹々に構うことなく突き進む。両手で葉と枝を押しのけつつ前に出て行った男はようやく開けた場所に出たが、
「は?」
思いがけない光景を目にして、口をあんぐりと開けてしまう。「影」の前には3人の娘がいた。浅黒い肌の少女がひとり、白い肌の少女がふたり。3人とも年齢はそれほど離れていないようだが、白い2人は顔つきがよく似ているから姉妹なのかもしれない。浅黒い娘の四肢と腹筋はよく鍛えられていて、明らかにただものではない、と用心棒は見抜いていた。しかし、それ以上に驚いたのは、彼女たちが一糸まとわぬ姿でいることだ。つまり、3人とも裸だったのだ。
「な、な、な」
美しい裸身から目が離せなくなって、「影」の顔には血が上がり、もともと黒い顔面がさらにどす黒くなる。どうしてこんなところで脱いでいるのか、と疑問に感じていたが、その答えとなったのは彼女たちの背後で濛々と立っている湯気だった。
(露天風呂か)
3人の娘は入浴の途中だったのだろう。そこに迷い込んでしまったことになる。緑の地獄の先に桃源郷があったとは、などと考えそうになって、「影」は愕然とする。客観的に見て、今の状況をどう捉えるべきだろうか。若い女の子たちが風呂に入っているところに踏み込んできた一人の男。とてもではないが、穏便に済ませられる状況ではない。
「えーと、あのう」
突然の闖入者の出現に呆気に取られていた少女たちの中で最初に口を開いたのはアンナだった。見知らぬ男の顔を指差して、
「もしかして、のぞいてたんですか?」
こういう場面でも敬語を使う程度に礼儀正しい娘の言葉に、
「いや、違う! 誤解だ! おれはそんなつもりでは!」
「影」は必死になって釈明する。もちろん邪な考えなどかけらほどもない。だが、それをわかっているのは彼だけで、少女たちにはわかるはずがなく、さらに必死になって言い訳している姿が「きもい」と思われてしまう、という悪循環が発生していた。
「おのれ。この出歯亀が」
羞恥と怒りにわなわな震えていたナーガ・リュウケイビッチが素早く動き出す。きちんと畳まれた衣服の上に置かれていた鞭を手に取ると、
「貴様、生きて帰れると思うな!」
必殺の一撃を見舞おうとする。
(まずい!)
生命の危険を感じた「影」が飛びのこうとしたまさにそのとき、
「いやあーっ!」
モニカが左手で胸を隠しながら右手で木の桶を男へと思い切り投げつけてきた。暗黒街で恐れられた仕事人ならばあっさり避けられて当然のはずだったが、
「ぶべっ!?」
すこーん、と軽い音を立てて、「影」の顔面に桶が命中する。鼻から噴き出た血が放物線を描き、そのまま男は昏倒する。ただの少女に失神させられるなど、一流の刺客にとって一世一代の不覚と呼ぶべき事態だったが、山中を長時間歩き回っていた疲労と女子の裸を目撃した混乱が相乗効果を起こしたのだろうか。先を越されて痴漢を倒されてしまったナーガはしばし唖然としてから、
「うむ。よくやったな、モニカ」
といつも可愛がっている少女を称えると、
「きゅう」
完全にのびている男へと近づき、蔑みを隠すことなく見下ろす。全身黒ずくめでどう見てもまともではない。
「変態ですか?」
恐る恐る近づいてきたアンナに訊かれて、
「ああ、間違いなく変態だ」
モクジュの少女騎士は力強く頷く。姉の背中にぴったりくっついたモニカが涙目で怒ったような顔をして、目を回している男を睨みつける。
「おい、何の騒ぎだ?」
そこにやってきたのはセイジア・タリウスだ。頭と身体に白いバスタオルを巻いている。一足先に温泉から上がって、湯上りのまま近くをうろついていたのだ。
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