第128話 もうひとつのファースト・キス

(おばあさまにはまた叱られるのだろうな)

とアルは思う。セイジア・タリウスに対する優柔不断を祖母のアレクサンドラからは何度となく責められていたのだ(彼女がセイの兄セドリックと知り合ったことをこの時点では少年はまだ知らない)。このままではフィッツシモンズ侯爵家を取り仕切る老婆が強制介入しかねない、と危惧したものの、

(そうは言っても、この状況で告白できるわけがない)

とも思っていた。ジンバ村で過ごした約一日の間に女騎士に長所をアピールできたとは言い難かった。むしろ、決闘で惨敗した挙句に、全裸で迫ったわけで、短所を十二分にアピールしてしまっていた。これで色よい返事がもらえると思うのがどうかしている。自分より先にこの村を訪れたシーザー・レオンハルトがセイに告白しないまま戻ってきた、と知った時には「だらしない」と内心で思っていたのだが、なんのことはない。自分だってだらしなさにかけては五十歩百歩といったところだ、と思わざるを得ない。とはいえ、いつまでも自己憐憫にひたって下を向いていられるほど、アリエル・フィッツシモンズは意気地のない若者ではなかった。

「今回はいろいろとお恥ずかしい姿を見せてしまったと思います」

すみませんでした、と頭を下げると、

「何も言うんだ。わたしがおまえのことを恥ずかしいなどと思うものか。あ! この『恥ずかしい』というのは、もちろん別に変な意味で言っているわけじゃなくて」

「もうそれは結構ですから」

少年の裸体を目撃して完全にバグってしまっている女騎士をアルはなだめると、

「次に会う時には、もっとちゃんとした姿をお見せしたいと思っています」

きっぱりと言い切って、セイを見つめた。大言壮語したわけではなく、頭の中では今回の失敗を取り返す算段がつきつつあった。切り株からひこばえが芽吹くように、昨晩折れたばかりの心から自信を甦らせて、アリエル・フィッツシモンズはさらにたくましく成長しようとしていた。

「わたしにとって、アルはアルだ」

彼女の言葉が心の支えになってくれたのかもしれない。この人さえいてくれれば、ぼくはいくらだって強くなれる。少年は本気でそう信じていた。彼の内面の動きが伝わったのか、

「ああ。楽しみにしている」

金髪の女騎士も微笑み返した。それから、2人並んで再び歩き出す。山道を歩きながらも、まっすぐ前だけを見て歩く少年の横顔をセイはひそかにちらちらうかがっていた。

(大人になったな、アル)

初めて会った時の14歳の彼からは見違えるような成長ぶりであり、ゆうべ取り乱していた姿が想像つかないほどに冷静さを取り戻していた。しかし、それでも、流れゆく雲が太陽を時折遮るように、不安や弱々しさが少年の顔を横切るのをセイは見逃さなかった。アルは確かに大人になったが、大人になりきったわけではなかった。ティーンエイジャーらしい脆さや不安定さがまだいくらか残っているのだ。しかし、女騎士をそれを悪いようには思わなかった。

(やさしくしてあげたい)

そう思っていた。まだ若い彼女の中にもあった母性本能というものを刺激されたのだろうか。この大陸を囲む4つの大洋よりも広く深い愛情が湧き出して、その思いが女騎士を自然と動かしていた。

「もうこのあたりで大丈夫ですよ」

ようやく行商人との待ち合わせ場所にたどりつき、振り返りながらセイに声をかけようとしたアルの右の頬に、ちゅっ、と何かが押し当てられた。強さも痛さもなかったのに頭頂部からつま先まで沁みとおるような衝撃に襲われて、少年騎士は自分が何をされたのかに気付く。セイジア・タリウスにキスされたのだ。

「え? え? え?」

目を丸くして呆然とするアルに、

「いや、なんだか元気がなさそうだったから、つい」

気まずそうに笑った女騎士が、

「いきなりこんなことをして嫌だったか?」

と言って来たので、

「いやいやいやいやいやいや! 嫌だなんてそんな、とんでもないことでございます!」

火が吹き出そうなほどに顔を赤くしたアルがほとんど叫ぶように返事をする。

「そうか。それならいいんだ」

ふふふ、と笑いながら身を翻したセイは、

「じゃあ、気を付けて帰るんだぞ。シーザーのやつと喧嘩したら、今度こそ承知しないからな」

ひらひらと手を振りながら元来た道を戻っていく。彼女の後ろ姿が見えなくなるのと同時に、アリエル・フィッツシモンズはへたへたと地面に倒れ込んでしまう。

それから30分後、待ち合わせ場所にやってきた行商人は、

「あはは。あはは」

うつろな目をして呆けた表情で右頬を右手で抑えたままへたりこんだ少年騎士を目撃して驚愕し、

「どうやら狐狸の類に化かされたようです」

と三日三晩かけて王都チキの騎士団本部まで彼を送り届けた。フィッツシモンズ副長が正気を失った、と知らされた王立騎士団は上へ下への大騒ぎになったのだが、

「こうすりゃすぐに治る」

ただひとり冷静だったシーザー・レオンハルト団長が半笑いを浮かべる少年騎士に頭からバケツに入った氷水を浴びせると、

「つめたああああああああ!」

とアルは絶叫し、たちまち正気を取り戻した(その代償として風邪をひいてさらに3日休む羽目になったが)。「王国の鳳雛」が大事に至らなかったこと、そして「アステラの若獅子」の見事な対応を、騎士団の男たちは素直に喜び褒め称えたが、

(あいつ、またやりやがった)

ただひとりシーザーだけは苦虫を噛み潰していた。アルがおかしくなったのは、セイにキスされたからだと見抜いていたからだ。彼女の口づけは男を狂わせずにはおかないことを、青年騎士は身をもって知っていた。

(ったく。リードしたと思ったらすぐに追いつかれちまった)

セイへの告白をかけたジンバ村行きが引き分けに終わった、と知ったシーザーは大陸各地で開発が進められているという蒸気機関顔負けの馬鹿でかい溜息を漏らしたが、

(まあ、負けなかっただけでも良しとしておくか。次だ。次こそおれの手で決めてやる)

ばちん、ばちん、と左の掌に右拳を打ち付けて、来たる戦いに向けて闘志を燃やしていた。かくして、セイジア・タリウスをめぐるシーザー・レオンハルトとアリエル・フィッツシモンズの争いはまだ続いていくこととなったのである。


一方、セイジア・タリウスの方も平静ではいられなかった。アルと別れるとすぐに森の中に入り込んで、

「またか! どうして! わたしは! あんなことを!」

そう叫びながら、がつん、がつん、と鈍い音を立てながら太い木の幹に頭を打ち付けた。常人なら間違いなく血が噴き出るところだが、最強の女騎士の頭突きだけあって斧の一撃に匹敵する威力でもって樹皮を抉り中身を砕き、遂には切り倒してしまった。どどどどどど! と大音響とともに大木が横倒しになっても、彼女の迷いは消えず、

(神様。天国の母上。ふしだらなセイジアをお許しください)

かつて修道院に入っていたほどに敬虔な心を持つ彼女は顔を両手で覆い隠して、自らの行いを恥じたが、何故キスなどしてしまったのか、そして何故シーザーだけでなくアルにもしてしまったのか、いずれの疑問を解く手がかりを見出せぬまま、2本目の木にも頭突きを食らわせ始めた。そうでもしないと、恥ずかしくてどうしようもなかったのだ。

後日、山に入った木こりが無惨に倒された何本もの木を発見して腰を抜かし、

「とてもじゃねえが人間のできることじゃねえ。死んだ爺様が言っていた物の怪の仕業に違いねえ」

と近隣を挙げての騒動に発展し、さらには「アステラの東の国境付近には天狗が棲んでいる」という現代でも語り継がれている怪異譚が生まれることにもなったのは、セイジア・タリウスが規格外の存在であるとともに、ある意味傍迷惑な存在でもあったことの証明であるのかもしれない。

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