第80話 女騎士さん、温泉に入る(その4)

戦争の終結によって大陸諸国は多かれ少なかれダメージを蒙ったのだが、中でもモクジュ諸侯国連邦の陥った混乱は甚だしいものがあった。それまで勝利に向かって我慢を強いられてきた国民は老いも若きも、富める者も貧しい者も怒りを爆発させ、責任を誰かに取ってもらわなければ収まらない、そんな状況になっていた。したがって、最高権力者である大侯が退位を余儀なくされ、彼の息子が後を継いだわけだが、それだけではまだ不十分だったようだ。復讐の神は血に渇き、新たな生贄を欲していた。その標的として選ばれたのが、ドラクル・リュウケイビッチだった。英雄として尊崇を集めていた彼が自決を遂げたのを、多くの国民が悼む一方で、老騎士を責める声も少なからず存在したのだ。「モクジュの邪龍」ともあろう者が、最後まで戦うことなく自ら命を断つとは何事か、と生前の名声が高かった反動なのか、死後の批判の声もまた大きくなっていたようにも思われた。彼の孫娘であるナーガ・リュウケイビッチは、祖父の名誉を守ろうと懸命になって動いたが、しかし、それは大海に石ころ一つを投げ込むかのような、はかない努力でしかなかった。彼女自身が大事な肉親の死から立ち直れないまま、終戦について納得できないまま行動していたために、効果が薄かった、とも言えたが、偉大な英雄の後ろ盾を失った少女騎士に世間は冷たく、「龍騎衆」の後釜を狙う騎士たちは彼女を邪魔者と見做して、中には命まで奪おうとする者までいた。遂には、首都ボイジアにあるリュウケイビッチ家の屋敷が荒れ狂う暴徒たちに焼き討ちされるに及んで、ナーガはジャロ少年と執事のパドルたちを引き連れて、逃亡生活を余儀なくされることとなった。

それから1年近くにわたって、ナーガはモクジュ国内を転々と移動することとなったのだが、信頼していた多くの人たちに裏切られ、まだ10代の娘はこの世界の暗部を見せつけられることとなった。しかし、その一方で、逆境にあっても変わることのない人間の尊厳や気高さによって救われたことも幾度となくあり、そのおかげで「蛇姫バジリスク」と呼ばれた少女は、辛うじて絶望に転落することなく誇りを失うこともなかったのは、この逃避行におけるわずかな救いだったのかもしれない。

(この国にはもういられない)

安住の地を求める試みが全て失敗に終わった後で、ナーガは国外脱出を決断したが、敵の手は既に国境にまだ伸びていて、彼女たちがやってくるのを今や遅しと待ち受けていた。もはや袋の鼠と化した一行は、最後の賭けに出ることを決める。唯一閉ざされていなかった西の国境、山岳地帯を越えてアステラへと脱出するのだ。あるいは、それこそが敵の策だったのかもしれない。真冬の高い雪山を素人が上ろうとするなど、自殺行為にも等しく、自らの手を汚すことなく勝手に死んでくれればそれでいい、という狡猾な企みだったのかもしれない。それでも、ナーガたちに他の選択肢はもはやなく、絶望的な脱出に臨むこととなる。

山越えは想像以上に苛酷なもので、多くの人間が命を落とした。ある者は凍え死に、ある者は崖から転落した。体力が尽きた者を見殺しにすることも何度かあり、そのたびにナーガは自らの力のなさを責め、涙を流し、その雫はすぐに凍り付いて、吹きすさぶ強風に散らされた。

しかし、それでも彼女は山を越えることに成功した。50人近くいた一行は10数人にまでその数を減らしてしまったが、

「リュウケイビッチ家の血を絶やさなければ我々の勝利です」

パドルの意見に他の者たちも同意した。ナーガとジャロさえ生きていればそれでいい、という考えを誇り高い少女騎士は素直に飲み込むことはできなかった。そのために、どれだけ多くの命が失われたかと思うと、胸を張れるはずもなかった。そして何より、アステラまでやってきたとしても、この後どうすればいいのか、目算はまるで立っていない。しばらくは山越えで体力を失った者たちの回復に努めるべきだが、それからどうすればいいのか、ナーガにはさっぱりわからなかった。かつての敵国に身寄りなどあるはずもなく、逆境を脱出する手立てを見出せずに、明かりを持たずに暗夜を行く心細い気持ちでいた彼女の前に、祖父を死に追いやった「金色の戦乙女」が現れたのだった。

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