第4話 女騎士さん、出発する
セイジア・タリウスがジンバ村へと向けて旅立ったのは、兄セドリックがやってきた3日後の早朝だった。
「行ってしまうのね」
リブ・テンヴィーにささやかれて、
「ああ」
とセイは小さく頷く。今、2人は家の前に立っている。まだ明けきらない寒空の下で、旅装に身を固めた女騎士とネグリジェにガウンを羽織っただけの占い師は黙ったまま見つめ合っていた。ただし、セイが手にしているのは小さなリュックサックだけで、これから遥か東の土地まで出かける人間にしては荷物が少なすぎた。
「身軽な方が楽だからな。必要なものは現地で調達するさ」
女友達の心配を騎士は軽く受け流した。いかにもセイらしい、とリブは考える。旅立ちを前にして金髪の騎士はリブの家に置いてあった私物を整理しようとしたのだが、いざやってみると整理するほど荷物が多くないことがわかって、物にこだわらないつつましい暮らしぶりにセイは自分で笑ってしまい、リブもそれを微笑ましく思ったのだが、今になってみるとその執着のなさがかえって悲しく感じられた。国を救った英雄なら、いやそれ以前に年頃の若い女の子なら、もっと華やいだ生活を送ってもいいはずなのに、と思ってしまう。
「そんなに急ぐ旅でもないんだから、気楽なものだ」
セイは兄の伯爵の命を受けてから、これから行く土地の事情を調べた。知り合いの新聞記者ユリ・エドガーに頼んで、東の国境付近の様子を調べてもらったが、特に変わったこともないようだとわかった。
「どうしてそんな田舎の話を知りたがるんですか?」
目端の利く記者の娘に訊ねられたが、
(この子に話すとあっという間に騒ぎになるに決まってる)
とその理由を黙っておくことにした。ただ、後で怒られると思ったので、先回りして謝る代わりにユリを抱きしめておいたのだが、「えへへへへへ」と真っ赤な顔で眼鏡の奥の目をぐるぐる回していた少女ライターが許してくれるかどうかは見当がつかなかった。ともあれ、ジンバ村まで急行する必要はない、と判明したので、セイはのんびり旅を楽しむことにしたのであった。乗合馬車で行けるところまで行き、途中からは馬を手に入れるつもりでいた。それができなくても、彼女の健脚ならば行けない場所はないので、見知らぬ土地に向かうにしても、セイには不安はまるでなかったが、見送るリブの胸は不安で一杯だった。
「あなたを行かせたくない」
何度も聞いたセリフをまた言われたので、
「ああ。わたしもあまり行きたくはない」
やはり何度も言った返事を告げる。
「だったらどうして? お兄さんに言われたから? 貴族としての務めだから?」
んー、と女騎士は困った顔をしながらも微笑んで、
「まあ、それもあるが、兄上から話を聞いて、『面白そうだ』と思ってしまったんだ。うちの者が誰も行ったことのない遠い場所に初めてわたしが行く、と思ったら、なんだかわくわくしてしまったのだ。そして、その気持ちがだんだんと行きたくない気持ちよりも強くなってきている」
セイの青い瞳は早朝の空気の中で輝いて見えて、彼女の言葉が強がりではなく本心から出たものだと証明していた。好奇心と期待が若き騎士を辺境へと駆り立てているのだ。
「あなたって本当に馬鹿よね」
「自分でもわかってるから、あまり言わないでくれ」
女騎士に優しく見つめられて、リブはどきりとしてしまう。
「それに、わたしの勘なんだが、おそらく向こうには困っている人がいると思うんだ。わたしが助けられるかどうかはわからないが、できるだけのことはしてあげたい」
「その通りよ」
「え?」
占い師の言葉に驚くセイ。
「あなたには東に行ってなすべきことがある、ってわたしにもわかってる。でも、でも」
感情的になるリブをセイは抱き寄せていた。
「ありがとう、リブ。きみは本当に立派だね」
友達に遠くに行ってほしくない、という私情と、人の進むべき道を指し示す占い師としての職責に引き裂かれていたリブの心情を思いやって、女騎士の胸は熱くなる。
「立派じゃない。立派な人間になんかなりたくない」
駄々っ子のように言い募る年上の女性を、うんうん、わかってる、と頷きながらセイは胸に抱く。しばしの沈黙の後、リブが口を開く。
「ねえ、セイ。あなた、他にもわかってることはあるんでしょう?」
「と言うと?」
6歳年下の友人の胸に頭を乗せながら、
「今回、あなたがジンバ村に行くことになったのは、何らかの事情がある、ってことよ」
そう言われたセイは空を見上げた。家に帰るのが遅れたのか、星がひとつだけ明けかけた空に残っている。
「まあな。兄上の様子から見てもそれはわかる。昔からそうなんだ。兄上は嘘がつけない人で、隠し事ができないんだ」
そういうところが好きなんだけどな、と言った金髪の騎士をリブは見上げて、
「それがわかってて、どうして行くの?」
と訊ねる。
「だから行くんだ。その理由を知るために」
惚れ惚れするような笑顔でセイは答えた。その考えが勇敢なのか愚かなのか、聡明なだけに占い師には判断しかねた。ただ、セイの行く先に危険が付きまとっているのは明らかだった。
(わたしにもできることがあるかしら?)
リブは考える。できることがあれば、なんだってしたかった。
「なあ、リブ。わたしからも頼みがあるんだが、聞いてくれるか?」
偶然にもそんなことを言われて戸惑った占い師は、
「なによ」
とわざとぶっきらぼうに答える。うん、とセイは頷いてから、
「お願いだから、兄上と仲良くしてほしいんだ」
少し間があってから、
「どうして?」
「わたしは2人とも大好きなんだ。好きな人と好きな人が仲良くしているとうれしいし、喧嘩していると悲しいんだ」
今度は長い間があって、
「やだ」
「え?」
「やだ。あんな人と仲良くなんかしたくない」
やれやれ、とセイは苦笑いする。暴れている猫を無理矢理に抱いたときのように、不機嫌な気持ちがダイレクトに伝わってくる。
「そんなことを言わないでくれ。兄上は融通は利かないが悪い人じゃない」
「向こうだってわたしのことなんか嫌いに決まってるわ」
そうかな? とセイは思う。リブを見る兄の眼に光が宿っていたのを思い出したからだ。
「まあまあ。次に会う機会があったら、もっと優しくしてやってくれ。わたしも兄上に手紙で注意しておくから」
「もう2度と会いたくないけど」
ふん、と鼻を鳴らされた。これ以上この話題を続けると怒られそうなので打ち切ることにして、抱き合ったまま他愛ない会話を続けていたが、
「もう行かなくては」
馬車の時間が迫っていた。ん、とセイの腕に抱かれたままリブは頷く。もうお別れだ。次にいつ会えるかはわからないし、二度と会えるかどうかもわからない。だから、笑って終わりにしたかったのだが、
「え?」
女騎士の2つの掌で頬を挟まれた、と思ったのと同時に、顔を上に向かされて唇を奪われていた。かぐわしい香りと柔らかな感触に心も奪われてしまう。
「どうして?」
と唇が離れてすぐに訊ねた。いや、と若干気まずそうにしたセイは、
「この前、リアスにされたから、リブにもしておかないと、と思ったんだが」
どんな義務感なのよ、とどぎまぎしながら思う占い師だったが、
「そうでなくても、リブとは前から一度してみたかったんだ。嫌な思いをさせたなら悪かったが」
という言葉を耳にして、ううん、と首を横に振って、
「嫌じゃないから」
とだけ言って、今度は自分からキスをする。そうしているうちに涙がこぼれだした。気持ちがあふれてどうしようもなくなってしまったのだ。おねえさんとしてしっかり送り出したかったのに台無しだ、と泣き崩れるリブに、
「大丈夫だよ。何処にいたって、わたしたちはいつも一緒だから」
セイは優しく言い聞かせた。
「元気でね。しっかり頑張ってね」
「リブも達者でな。あんまり飲みすぎたら駄目だぞ」
セイジア・タリウスが大きく手を振りながら遠ざかっていく。その目には薄くにじんだ涙が光っていたのだが、リブはそれに気づくどころではなく、友人の姿が見えなくなったのと同時に、手で顔を覆って蹲ってしまう。1年ほどの暮らしの中で、セイが自分の中でいかに大きな存在になっていたのか、今頃になって気づいていた。
「わたしたちはいつも一緒だ」
最強の女騎士の言葉が嬉しかったし、そう信じたかった。だが、彼女の不在によって生じた空虚に耐えられるとも思えないまま、冬の朝日の中でリブはしばらく涙に暮れていた。
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