第18話 見習い、食堂へ戻る

「くまさん亭」の裏口までやってきたものの、チコは足を踏み入れられないでいた。一体どんな顔をして戻ればいいのか、わからなかったのだ。裏切りを働いて逃げ出したことに、ノーザ・ベアラ-やオーマから何を言われるかわからなかったうえに、ついさっき自分を恐ろしい目に遭わせたセシル・ジンバもいるはずだった。まさしく「どの面を下げて」という思いで胸がいっぱいになって、少年の脚はすくんだまま動かなかった。

「おう、来たか」

後ろから声をかけられて振り向いたのと同時に、頭に衝撃を受ける。目の前が暗くなり、星が飛び散った。視界が回復すると、コムの姿が目に入り、ゲンコツを食らわされたのだと気がついた。とても痛くて、間違いなくコブができるはずだった。

「おまえが行くのはそこじゃない」

そう言って、大柄な料理人が歩き出したので、事情が分からないまま後をついていく。さほど長いこと歩かずに、店の先輩は建物の中に入っていった。少年の記憶では、一か月ほど前まで小料理屋が入っていたが、「フーミン」の大量出店の影響で閉店に追い込まれていたはずだ。だが、室内の様子は予想もしないものだった。

「みなさん、調子はどうですか?」

コムの呼びかけに、居並んだ女性たちがそれぞれ返事をする。いくつも並べられたテーブルの上には桶がひとつずつ置かれていて、その中では炊き立ての白飯がもうもうと湯気をあげているのが見えた。そして、その白飯が丸められたのがやはりテーブルに敷かれた白い布巾の上に何十個も置かれている。

「おまえにもあれをやってもらう」

「はい?」

ちっともわけがわからないままコムを見上げると、彼は黙ってひとつだけ誰もいなかったテーブルに近づき、布巾で手を拭くと桶から素手で白飯を手に取り素早く丸めだした。軽快な手さばきできれいに形を整えて卓上に置く。なるほど、ああいう風にして作っていたのか、と少年も納得する。

「ぼさっと突っ立ってんな。おまえもやるんだ」

大男に叱責されて、チコは慌ててその隣に並んだ。どうしてこんなことをさせられるのか、さっぱりわからなかったが、とりあえず言う通りにするしかなさそうだ。

「おまえが出て行ってすぐ後に大変なことが起こったんだ」

コムが独り言のように勝手にしゃべり出した。どうやら事情を説明してくれるらしい。口うるさい先輩ではあったが、いつも親切に接してくれていたのに今頃になって少年は気づく。

「この街の問屋がみんな、うちとの取引を辞めるって言い出してな。店に食材が入ってこなくなっちまったんだ」

想像を上回る事態にチコは言葉を失う。そして、それが「フーミン」の仕業だというのも薄々気づいていた。どのような手段をとることも厭わない連中であるのは、他ならぬ自分自身が利用されていたこともあってよくわかっていた。

「そのときはおれも失業を覚悟してたんだが、まあ、それはわが『くまさん亭』自慢の看板娘が頑張ってくれたおかげでなんとか代わりの店が見つかったんだ」

「セシルが見つけてきたんですか?」

「おう。どうやって見つけてきたのかは話してくれないから、よくわからないんだがな」

コムにはわからないようだったがチコにはよくわかった。さっき見せたあの迫力と貫禄があれば、どんな交渉事もまとめられるだろう。

「ただ、代わりは見つかっても、すぐに食材をいつも通りに補充できないから、店を開けられない、ということになった。そうしたら、オーマの兄貴が『弁当を作って売ろう』と言い出して、そしてこのオニギリを作ることになった。たまたま米だけは大量にあったんでな」

「はあ。オニギリ、ですか」

聞いたこともない料理だったが、オーマのようなベテランなら知っていても不思議ではない、と思っていると、

「ちなみに、これもセシルちゃん直伝だ。シチューもそうだが、あの子はいろんなことを知ってて、感心するよ」

またしても後輩のバイト女子の功績だと知って坊主頭の少年は苦り切る。つくづく差をつけられたものだったが、そういえばその少女の姿がここにはない。むろん、あの娘に会いたいとは思わなかったが、いなければいないで気になるのも事実だった。

「セシルちゃんなら店にいて料理を作ってるぞ。今はもう普通に店を開けられるようになったんでな」

後輩の考えることなどお見通し、と言いたげにコムがにやりと笑う。

「話を戻すが、店が開けられない代わりに弁当を売る、というのはおれから見ても苦し紛れで、でもやらないよりはマシだ、って感じだったんだが、そうしたらこれが予想外に売れ行きが良くてな」

「これが、ですか?」

こんなシンプルな食べ物が評判をとるとは信じられなかった。

「そうやって馬鹿にするからおまえはダメなんだよ。単純なものほど奥が深いものなんだ。実際見てみろ。おまえが作ったの、全然なってないぞ」

確かにその通りだった。少年の手の中にある米のかたまりは、ねじまがった歪なもので、コムや他の女性たちが作っているものとはまるで違っていた。

「売り物になるまで、いくらでも練習させるから、そのつもりでいろ」

はあ、となんとなく言うことを聞いてしまったが、もう自分は店を辞めているのだからこのまま帰ってもいいはずだ、とチコは気づく。だが、帰るつもりがなくなっていることにも気づき、再び白飯を手に取って、オニギリを作ることにする。

「店の方は3日で開けられるようになったんだが、オニギリの評判も良かったからこのまま弁当の販売も続けることにしたんだ。ところが、評判がよくなりすぎて、おれたち4人だけじゃ手が足りなくなってな。そういうわけでこの人たちの力も借りよう、とおかみさんが言い出したんだ」

女性たちが集まられた理由もそれでわかったし、自分も人手不足が理由で呼ばれたのだと少年にはわかった。わーい、わーい、と言いながら後ろを誰かが駆けていく、と思ったらポーラだった。ノーザ・ベアラーの一人娘で、いつもは女主人の隣の家で預けられているはずだったが、

「シティリーさんに頼んで、近所の奥様方にアルバイトのお誘いをしたんだ。みんな、飲み込みが早くてすぐに作り方を覚えたんだから大したもんだよ」

そのシティリーは、走り回るポーラに「おとなしくして」と声をかけている。彼女がいつも幼女の面倒を見ているのだ。

(ざまあないな)

チコは落ち込む一方だった。目の前にはいくつものねじまがった米のかたまりが並べられている。本職でない主婦にできたことが自分にはできていないのだ。暗澹たる思いにとらわれていると、

「そう気にすることでもないぜ」

と、コムが言ってきた。自分の胸の内はこの大男に筒抜けらしい。

「おれも兄貴も最初は苦労したんだ。今のおまえみたいにさっぱり上手く行かなくてな」

「そうなんですか?」

「そうだとも。おかみさんはすぐにできたから、『どういうことなんだろうな』と男2人で落ち込んでいたら、いきなり兄貴が『力の抜き方が大事なんだ』って叫んだんだ」

「力の抜き方?」

「そうだ。力の入れ方じゃなくて、抜き方だ。つまり、おれたちはついつい力を込めて握っちまってたんだ。そうじゃなくて、もっと軽く握ればいい、って気づいて、そうしたら上手く行くようになった。だから、男より女の人が向いてるかも知れない、というのは兄貴の見立てだ。力よりも器用さが必要なわけだからな。そういうわけで、こうして奥様方を呼んでいるんだ。別におれが熟女好きだからそうしているわけじゃないから誤解するなよ」

余計な言い訳をしたものだから、もはやコムの性癖で人を選んだとしか思えなくなってしまう。

「ほら、おまえもそういう風にやってみろよ」

言われた通りに力を入れないようにして白飯を握ってみると、確かに丸く形を整えられるようになってきた。力の抜き方が大事、というのは当たっているようだった。

「いい感じだな。その調子でもう少しやってみろ」

はい、と素直に返事をしていた。こんなに身体が良く動くのはいつ以来だろう、と少年は思う。オニギリに限らず、自分は力を入れすぎていた気がしていた。後輩の少女に追い越されて、なんとか成果を出そうとして空回りを続けていた自分はなんと愚かだったのか、と思えてきた。

「やっとおまえもおれに並んだな」

無心になってオニギリを作っているとコムが声をかけてきた。

「え?」

「おまえが今こうやって店に舞い戻ってきたのを見てそう思ったんだ」

「いや、それはあんなことをしておいて戻るのも虫がいいというかなんというか」

「いいんだよ。おかみさんが戻してもいい、と言ってるんだから、おまえはもう戻ってるんだよ」

大男の意図が読めずにチコは困惑するが、意地悪を言っているのではない、というのはなんとなくわかった。

「それに、おれにおまえを責めるつもりはあまりないんだ。おれだって最初に働いた店を飛び出しているんだからな」

「そうなんですか? 知りませんでした」

「知らなくて当たり前だ。今まで誰にも言ったことがないんだ。兄貴にも、おかみさんにだって言ったことはない」

そんな話を何故自分にするのか、と思っていると、

「ちょうど今のおまえと同じ歳だったと思うが、店のしごきがあまりにもきつくて耐えきれなくなってな。やっぱりおまえと同じように『やってられない』とかなんとか捨て台詞を吐いて店を飛び出しちまったんだ。でも、おれの方が間違ってる、って2、3日経ってから気づいて、すぐに『もう一度入れてください』って頭を下げに行ったんだが、当然認められなくて門前払いさ」

「それでどうしたんですか?」

「他にどうしようもないから、毎日通って謝ってお願いに行ってそのたびに追い返されてたんだが、15日目くらいかな、『二度と来るな』ってとうとう水をぶっかけられて、それでも『来てほしくないなら殺してください。でないとまた明日も来てしまいます』って無茶苦茶なことを言ったら、そこに引退していた前の料理長がたまたま通りかかって、『警察沙汰にするくらいならもう一度入れてやれ』って口をきいてくれて、それでやり直すことができたんだ。まあ、あのときは頭がどうかしてた、って自分でも思うが、それくらい必死だったんだな」

あまりの壮絶さに言葉を失うが、少年は胸を打たれてもいた。たとえ正しくなかったとしても懸命な行動は人の心を動かすのかもしれなかった。

「でも、入ってからがまたつらくてな。一度逃げ出したんだからしょうがないんだが、誰も相手にしてくれなくて、もちろん調理に関わらせてなんてもらえない。仕方がないから自分で気づいたことを、みんなが面倒くさがって嫌がることをやっていたら、3か月くらい経って、『おれも一緒に謝るから』って一緒に入った同期に助けてもらって、ひとまず厨房に戻ることができた。それからも白い目で見られ続けて、ずっと口をきいてくれない人も何人かいたんだが、そこから1年半経ってやっとちょっとした料理をやらせてもらえるようになった頃に、前の料理長が、おれを助けてくれた人がまたふらっとやってきて、『あのときのでかいのじゃないか』って、おれに声をかけてきたからみんな驚いてな。『おかげで戻ることができました』って頭を下げたら『わしはきっかけを与えただけだ。ここまで残ったのはおまえの頑張りがあってこそだ。よくやってるな』って言われて、後はもう涙しか出てこなくて、大弱りだ」

ぐす、と鼻を鳴らしてからコムはまた話し出す。

「そこからはみんな普通に話してくれるようになったから、あの人にはどれだけ感謝してもしたりない。残念なことにもう亡くなってしまったんだが、おれにとっては一生の大恩人だ」

そう言って、大柄な料理人はチコの方を見た。

「おまえは自分のやったことの償いをしなきゃいけないんだ。そのためには、うちの店でしっかりやってもらわないといけない。おまえには勝手に辞める権利なんてないんだ。それはよく覚えておけ」

はい、と少年が小声で返事をすると、

「ただ、一度逃げ出して戻ってきたことで誰かが何かを言ってきたら、そのときだけはおまえの味方になってやる。別におまえのためなんかじゃなくて、自分がやられて一番嫌だったことを他人がされているのを見て見ぬふりはできない、って話だし、うちの店の人間はみんな優しいから、そんなことはないと思うけどな」

だからだな、とつぶやいてから、

「チコ、戻ってこい」

とコムは力強く言った。

「あら、その方、大丈夫ですか?」

向かいのテーブルのいかにもマダムらしい雰囲気の白髪の女性が心配して声を掛けてきたのは、坊主頭の少年が涙をぼろぼろこぼしながらオニギリを握り続けているからだった。

「ああ、なんでもありませんから、おかまいなく」

大男は陽気に返事をすると、

「泣くのは別に構わんが、涙をオニギリにこぼすなよ。塩味が効き過ぎて、店に文句が来ると困る」

はい、と返事をしたつもりだったが、胸が一杯になってしまって、ちゃんと言葉にできたかどうか、チコにはよくわからなかった。





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